終章

画像は戦国IXA第一章の画像。

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書かれているのはもちろん足利義昭織田信長室町幕府滅亡直前のイメージか。義昭と信長の対立は確かに戦国時代の一つのハイライトではある。
黒嶋氏はここで各地域における検討を踏まえて、15・16世紀の日本列島の政治社会構造について、室町幕府権力の視点から展望する。黒嶋氏はその画期として四人の将軍を浮かび上がらせる。6代義教、8代義政、10代義稙、13代義輝である。
義教は幕府政治を構成する有力在京大名に依存しない、新たな統治方法が模索された時期とする。義教は探題権限を縮小し、九州では奉公衆と大内氏、東日本では京都御扶持衆と篠川公方による新たな指揮系統を構築する、という。義満の時代に公武融合政権として確立した室町幕府は寺社本所保護に切り替えて行く中で有力在京大名はしわ寄せを受ける、とする。個人的な感想を言えば、有力在京大名の定義が少し曖昧である、と思う。九州の問題では、大内持世を抜擢したのは、探題の形骸化という局面に対応したのは分かるが、義教の頃には畠山満家が大友や菊池の代弁者として 持っており、また細川持之篠川公方や南奥州の京都御扶持衆とのパイプとして存在していた。有力在京大名でも没落するものもいれば、逆に権限を強化して行くものもいたのではないだろうか。少なくとも篠川公方による指揮系統には細川持之という有力在京大名が絡んでいたことも、考慮に入れるべきではないか、と今のところ思っている。今日の夕方には意見が変わっているかもしれない。
足利義政については、その親政期に着目する。義政は積極的に将軍権力の強化を図り、近習や奉公衆による将軍直臣団の整備を進めた。将軍権力を荘厳するための琉球使節も義政によって本格的に整備・充実されたものと考えてよい、とする。また義政は在京大名や地方守護家に積極的に家督問題への介入を行い、分散化を助長した。細川氏以外の在京大名は衰退し、在京すら維持できなくなる。地方武家との取り次ぎも細川氏か伊勢氏のどちらかに収斂して行く、とする。さらに経済においても、新たな広域流通の模索と、コンパクトな在地経済圏が成立してくる中で、地域に根ざした新たな権力が必要とされていた、とする。義政による将軍権力の荘厳については、私もかつて朝鮮への遣使をネタに考えたことがあるが、長節子氏によってコテンパンに粉砕された経験がある。もう一度慎重に考え直してみようかな。
足利義稙については、地方滞在中の義稙が地方武家に御内書を積極的に発給していたことに着目する。この結果既成の武家秩序は大きく揺るぎ、二つの将軍による対立軸が地方でも出現する、とする。ただ義稙を継承した義維には積極的な御内書発給は見られず、黒嶋氏は「二つの将軍家」論は義稙と義澄の関係にのみ限定させるべきである、とする。義稙の行動は、地方武家からの支援に様々なメリットがあることを戦国期の将軍が認識するきっかけになったのではないか、と考える。
足利義輝については、初の近衛家出身の母を持つ将軍であり、義輝室も近衛家から迎えている、という、足利・近衛の連立に支えられ、地方への積極的な介入に乗り出す点に着目する。地域レベルでの「公儀」
として権力を確立しつつあった戦国大名に将軍との関係を再生産させ、大名を守護職やさらには探題に補任していった。探題・守護職を幕府の役職から将軍を頂点とする権威的秩序に従っていることの標章としての意味に読み変えたとする。
関東でもこの四人の将軍に対応して大きな戦乱が起きている。義教と永享の乱足利持氏滅亡)、義政と享徳の乱足利成氏の反旗)、義稙と永正の乱(足利政氏
高基の内乱)はいずれも鎌倉公方権力の内部問題の顕然化として理解されがちだが、将軍からの圧力が大きな要因としている。また義輝の時期に古河公方家督相続をめぐって引き起こされた上杉謙信北条氏康の戦闘も義輝が両者に関東支配の名分を与えたことと関係がある、という。個人的には堀越公方の滅亡をどう位置付けるのか、ということが気になって仕方がない。これは義澄の問題だから、上記の四人の将軍とは関係がない、と言われればその通りだが、気になって夜も寝られない、気がする。というよりも八月末までに書評を仕上げないといけないので、夜に寝る暇はない、といえばない(滝汗)。
室町幕府将軍権力はしなやかに時々の情勢に順応して将軍と地域実力者の関係を再生産していったと黒嶋氏は指摘する。戦国大名もまた地域社会の実情に対応してしなやかに体制のありようを変えながら両国を形成していった、とする。そして戦国大名も全国的な武家秩序の中に自らを位置付けることを必要とし、そこから脱却する発想を持たなかった、とする。義輝のように地方に介入し、紛争調停と将軍への系列化を展開すれば、「幕府」は安泰であり続けることが可能であった、という。
それが織田信長によって潰されたのはなぜか。黒嶋氏はその経緯の概観で本書を締める。
将軍を頂点とする権威的秩序を維持するためには、地域権力同士の勢力均衡が不可欠であった。しかし義昭は自身の手で突出した強者である織田信長を作り上げ、バランスゲーム形成に失敗して追われた。信長は義昭を保護する毛利氏とその周辺を除き、北の安藤氏から南の島津氏まで、信長の下に編成されていた、という。しかし秀吉は信長の地方編成を継承できず、信長の死とその後の混乱の中で伊達政宗北条氏政長宗我部元親島津義久による席巻が続き、信長の後継者としての地位を固めた秀吉は、新たな系列化を企図して「惣無事」というスローガンを用意する、という。四国征伐九州征伐、関東征伐、奥羽仕置という軍事征服によって秀吉の全国統一が成し遂げられたことは、信長による中央と地方の関係を継承させることができないまま、強大化した政権であり、「武威」を伴った全国政権の誕生は、本能寺の変後に激変した政治過程を乗り越えてきた秀吉政権の特殊性として理解すべきかもしれない、と指摘する。
さあ、あとは書くだけだ!!!突貫工事頑張るぞ!!!!