工藤家年々秘録

『工藤家年々秘録』はある方から頂戴した史料。「北海道史原稿用紙」と記された原稿用紙に筆記されたもの。『北海道史』(多分『新北海道史』のことだと思う)編纂の際に手書きで書写したもの、とご教示をいただいた。しばらくこの史料の検討を行う。全部で300頁足らずなので一年ほどでデジタル化と注釈をつけようかと思う。

工藤九郎左衛門尉祐長者数代若州之武田家ニ奉仕。信広公御家督御相続之儀ニ付、有故而長臣中、与佐々木三郎兵衛尉源繁網并祐長評議之上宝徳三辛未年春三月廿八日之夜、密君公若州之御屋形御退去之節、祐長并繁網外ニ御家士三人供奉野州足利江御越、享徳元壬申年春三月奥州田名部江御越、蠣崎江御築城住せ給ふ。同三年甲戌年秋八月廿八日君公伊駒安東太政季朝臣与御談合ニ而大畑御出帆、夷国江御渡海、上国華沢城ニ住せ給ふ。抑祐長始外四人供奉〈此時相原周防守源政胤・河野加賀守越知政道も渡海〉

工藤九郎左衛門尉祐長→工藤氏は藤原南家為憲流で伊豆や駿河に勢力を張っており、曾我兄弟の敵討ちで有名な工藤祐経がいるが、通字の「祐」を考えれば、祐経に関係のある家ではないかと思われる。工藤氏の中には北条得宗被官となった家もあり、若狭にせよ津軽にせよ得宗関係(若狭守護や糠部郡地頭)の代官として下向していた可能性は否定できない。
数代若州武田家ニ奉仕→若狭武田家は信広の伯父に当たるとされる武田信栄に始まるが、信栄が若狭守護になるのは永享12年のことであり、信広が生まれたのが永享3年ということを考えると、この辺は出鱈目が多く、信憑性は低い。
繁網→原文書を見ないと何とも言えないが、どう考えても「繁綱」ではないかと思われる。もちろん『新羅之記録』では「繁綱」だった。ちなみに「佐々木三郎兵衛尉源繁綱」が「家子」、「工藤九郎左衛門尉祐長」が「郎等」とある。
蠣崎江御築城→蠣崎氏との関係(蠣崎季繁や蠣崎信純など)との関係を考え直すべきかと思う。
君公伊駒安東太政季朝臣与御談合ニ而大畑御出帆→安東政季との関係
華沢城→花沢城のこと。

調子がいいので続き。
ここからは「一」とナンバリングがなされる。但し数字は全て「一」。

一 工藤九郎左衛門尉祐長文明二庚寅年年秋八月廿日卒。法諱仁徳院殿興国隆斎禅定門。
一 工藤九郎兵衛尉祐政文亀元乙丑年秋八月九日卒。法諱祐政院殿寛良豊皓禅定門。
一 工藤九郎左衛門尉光祐者光広公・義広公永正十一甲戌年春三月三日小舟百八拾余艘ニ被召上国より(一字で「より」と読む例のアレ)大館城江御移住光祐供奉。大永五乙酉年秋七月廿六日卒。法諱龍岳院殿瑞雲寛起禅定門。
一 工藤九郎左衛門尉祐兼享禄二己丑年春夷酋長タナサカシ与合戦の時討死。法諱勇釼院殿忠山義川禅定門。
一 享禄二己丑年蝦夷酋長タナサカシ為征討工藤九兵衛祐致発向之節不慮ニ食物乏く有合蕨を食し後勝利を得たるを吉兆として往古よ里用来家紋伊保利ニ木瓜を五ツ蕨手の内へ木瓜と改候様従義広公蒙上意。

光祐→明らかに蠣崎光広の諱を拝領している。祐長や祐政は一字拝領ではなさそう(通字の「祐」が上に来ている)だが、光祐は通字が下に来ている。
タナサカシ→『新羅之記録』では「(享禄)二年三月二十六日狄発向、欲攻上之国和喜之舘。折節良広朝臣舘籠将隠謀和睦、引畀数多之償。酋長多那嶮云狄(以下略)」とあり、いきなり蠣崎義広がタナサカシを討つことになっている。工藤祐兼の戦死は書かれていない。それと『新羅之記録』ではだまし討ちになっているが、『工藤家年々秘録』ではだまし討ちのシーンはない。