対訳『椿葉記』17

准后の若公、梶井門跡へ入室ありしを取返し申され、愛子にて、いとはなやかにもてなされしほどに、此行幸にも舞御覧色々の御あそびどもにさふらはれて、色花にてぞありし。其四月に内裏にて元服して義嗣と名のらる。親王元服の準拠なるよしきこえし。御兄をもおしのけぬべく、世にはとかく申あひし程に、さだめなき浮世のならひのうたてさは、いく程なく同五月六日准后薨給ふ。〈鹿苑院と申〉

准后の若公-足利義嗣。しばしば二男とされるが、実際には義持の上に清山友士がいるので三男というべきだろうが、次男の義持が嫡子で、順列から言えば義嗣が二番目に配されていたので、二男と書かれることが多いのだろう。ウィキペディアでも村田氏註でも「二男」となっている。
取り返し-梶井門跡から義嗣を取り返し、叙爵した同日に青蓮院門跡に入室していた義持の同母弟春寅が出家を遂げ、義円と名乗っている(後の足利義教)。桜井英治氏はそのことが「義教の人格にも暗い影を落としているように思われてならない」(『室町人の精神』講談社学術文庫版p72)としているが、義嗣と交代になったのは同じ梶井門跡に入室した義承であるべきではないかと思う。たまたま義嗣の叙爵と義円の出家の日が同じであっただけで、義円が義嗣とバーターであったとは思えない。
親王元服の準拠-ここから義嗣を皇位継承者であり、義満の皇位簒奪の一階梯であるかのように論ずる見解が90年代には流行したが、現在では摂関家に准ずる、もしくは上回る家格を設定した、とする見解が多数説である。
御兄-足利義持
鹿苑院と申-朝廷からは鹿苑院太上法皇の称号の打診があったが、義持はそれを断った。

准后の若君の、梶井門跡へ入室していたのを取り返されて、可愛がっていた子であったので、たいへんはなやかに取り扱ったので、この行幸にもまいごなど色々の御遊びにもお連れになって、華やかなことであった。その四月に内裏で元服して義嗣と名乗られた。親王元服に準拠しているという話が聞こえてきた。兄の義持をも押しのけて義満の後継者になるのでは、と世の中はとかく噂していたが、無常なるこの世の習いとして上手くいかないもので、程なく同五月六日に准后は亡くなった。鹿苑院と申す。