対訳『椿葉記』28

さて四月に年号かはりて正長元年と申。延喜こそ久しき年号にてあるに、それにこえて卅四年は我朝にためしなし。誠にながかるべき年号にてありけり。さて此五月の比より御悩はなをおもらせましまして、儲君の御事、世にはさまざま申程に七月のはじめ嵯峨にまします南方の小倉殿と申御逐電ときこゆ。

延喜こそ云々-応永は一世一元制が導入される以前では最長の年号。歴代でも64年の昭和、45年の明治に次いで三位。応永元年が足利義持の将軍職就任に際して改元がなされた為、事実上義持の治世を表す年号であった。称光天皇は代替わり改元もなかったので、危篤になってからの正長を形式上の代替わり改元としたが、正長改元足利義教の代替わりを告げる為の改元である事は明白である。
儲君の御事云々-普通に考えれば北朝系の伏見宮家の彦仁王でいいと思うのだが、異論があったのだろう。後小松院がどう考えていたのか、大名の中に異論があったらしい事は満済が書き残している(それは斯波義敦であるらしい事も示唆されている)。
小倉殿-後亀山院の孫で小倉宮聖承。ちなみに聖承という名は出家後の名前で諱は不明。子どもは義教の一字を拝領して教尊と名乗り勧修寺に入室するが、禁闕の変流罪となる。
逐電-伊勢国北畠満雅多気城に入り、北畠満雅の乱が勃発する。

さて四月に年号が変わって正長元年と申す。延喜こそ長い間続いた年号であるが、それを超えて三十四年は我が朝に例がない。本当に長い年号であった。さてこの五月の頃よりご病状はなお重くなられ
皇太子の事は世には様々に申している間に七月の初めに嵯峨にいらっしゃった南方の小倉殿と申す方が逐電と聞こえてきた。