ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ

タイトルはF.テンニースのパクリ。藤田東吾社長の行動は、有罪判決を受けた藤田被告が奇行に及んだ、という報道内容だが、藤田社長の持っていたメッセージは黙殺か。しかしこの問題については私は何も言えない。共謀罪も24日に採決といううわさだが、私が何か言うだけの材料があるわけでもない。知的財産問題については、塾業界の人間としていいたいことはいくらでもある。しかし私に出来ることは限られている。出来ること、論じられることを精いっぱい考えるしかない。
というわけで、塾におけるいじめ問題の続編。
塾講師として必要なことは、生徒の学力把握だけではない。もちろん塾生の学力把握は重要課題である。一人一人が何を分かっていて、何を分かっていないのかをある程度把握する必要はある。それと並んで、というよりもより大事なのが塾内の人間関係の把握である。誰と誰が友達で、どういうグループを構成しているのかを可能な範囲で把握する必要がある。塾に来る時、帰る時、ぼーっとしているのではなく、塾生の行動を見ておく必要がある。多くの塾で塾生の出入りの時に入り口で挨拶をする講師がいるが、それは塾にやってくる生徒の様子、塾から帰る生徒の様子を観察しているのである。それと休み時間も放置してはいけない。少し長い休み時間の時に、人間関係ははっきりわかる。そしてその動きを可能な範囲で把握する。
いじめはグループをまたいで行われるものと、グループ内で行われるものがある。容易に顕在化するものは、概ね前者のいじめである。対処もたやすい。もともと相互の間に関係は薄いわけであるから、容易に清算が可能である。いじめた側を排除することで対策は完了する。実際には排除までにはいたらずに解決する。問題は後者のいじめである。今まで仲良くしていたのが突然いじめる側といじめられる側に別れる。いじめられている側は何が起こったのか理解できないまま、いじめは進行する。教師から見ていると、ふざけているようにしか見えないのである。しかもいじめられている側も自分の周囲の人間関係を清算する勇気が出ない。だから深刻化する。ここで清算も覚悟で解決に乗り出せば、案外あっさり元の鞘に収まるものだが、当事者には中々冒険しづらいものがあるだろう。いじめている側も「ふざけているだけ」という認識であることが多い。しかしその行為の中に「傷つけ」というメタメッセージがこめられているのだ。「傷つけ」というメタメッセージが込められるのは、結局人間関係が何らかのきっかけで変化したからである。その変化をいじめられている側と、第三者が容易に把握できないことが、こういう種類のいじめを深刻化させる要因である。
こういういじめに対して教師のできることは限られる。人間関係を清算することはいじめられている側も希望していない。清算する覚悟が出来た時、いじめは解決に向かう。塾では比較的その勇気を出しやすい。それは塾における「社会」というのは限定的なものだからだ。特に我が塾のように進学塾である場合、人間関係はなくても別に構わない。勉強が全てだからだ。生徒もそこは開き直れる。変な話だが「勉強を頑張ればいいんや、お前をいじめないとやっていけないような弱いやつらは合格なんかできない。お前は志望校に合格して笑ってやればいい」と言うだけで、本人は救われた気がするのか、いじめを克服することもできたりするものだ。あまり褒めた解決策でもないが。
進学塾はまさにゲゼルシャフトである。特定の目的達成のために作為的に形成されている。そこでは目的の達成が重大事であり、共同性は二の次である。これがしばしば塾に反感を持たれる原因でもあるのだが、塾においていじめが発生しにくい要因でもある。学校は本来ゲゼルシャフトなのだが、現在学校に要請されているのはゲマインシャフトとしての特性である。
学校のゲマインシャフトとしての特性は、肥大化しつつある。学校がイデオロギー装置として有効たらしめるためには、ゲマインシャフトとしての特性を肥大化させることが必要だからである。しかも現在教育改革を主導する人々はゲゼルシャフト的社会を敵視し、ゲマインシャフト的社会を臨んでいるかのようである。
塾はゲゼルシャフトであるところに存在意義があると私は考えている。