九条稙通

もちろん戦国IXAがらみのネタ。私は城主名を「九条稙通」としている。戦国時代の九条家の当主。
本来は「我が九条」カテゴリだろうが、「我が九条」の体裁をとれないので。あれは『公卿補任』が不可欠。今中断しているのは『公卿補任』を利用する条件が整っていないため。
幸田露伴がいろいろ面白いことを書いている。幸田露伴の弟が幸田成友という歴史学研究者だったので、露伴自身も歴史には造詣が深くても不思議ではない。最も兄弟に歴史学研究者がいるからと言って必ずしも歴史学の素養があるとは限らない。
青空文庫露伴の「魔法修行者」というのがあって(「幸田露伴 魔法修行者」)そこに稙通の話がある。ただ青空文庫に打ち込んだ人がおそろしく歴史学に素養がなく、漢字にも通じていなかったのか「稙通」を「植通」と表記しているのには参った。諱の「稙通」が足利義稙偏諱を受けていることは分かりそうなものだし、そもそも「植」という字を「たね」と読むのはいくら何でも不可能だろう。
ともあれ面白そうなところを抜粋する。読みがなが付してあるが、却って邪魔なので外したのと、「植通」を「稙通」に直した。露伴がそのようなどじを踏むわけがない。

織田信長が今川を亡ぼし、佐々木、浅井、朝倉をやりつけて、三好、松永の輩を料理し、上洛して、将軍を扶け、禁闕に参った際は、天下皆鬼神の如くにこれを畏敬した。特に癇癖荒気の大将というので、月卿雲客も怖れかつ諂諛して、あたかも古の木曾義仲の都入りに出逢ったようなさまであった。それだのに稙通はその信長に対して、立ったままに面とむかって、「上総殿か、入洛めでたし」といったきりで帰ってしまった。上総殿とは信長がただこれ上総介であったからである。上総介では強かろうが偉かろうが、位官の高い九条稙通の前では、そのくらいに扱われたとて仕方のない談だ。稙通は位官をはずかしめず、かつは名門の威を立てたのである。信長の事だから、是の如き挨拶で扱われては大むくれにむくれて、「九条殿はおれに礼をいわせに来られた」と腹を立って、ぶつついたということである。信長の方では、天下を掃清したのである、九条殿に礼をいわせる位の気でいたろう。が、これはさすがに飯綱の法の成就している人だけに、稙通の方が天狗様のように鼻が高かった。公卿にも一人くらいはこういう毅然たる人があって宜かったのである。

またこういう記述もある。

あるいはまた西方諸国に流浪し、聟の十川を見放つまいとして、縉紳の身ながらに笏や筆を擱いて弓箭鎗太刀を取って武勇の沙汰にも及んだということである

文中の十河は三好長慶の弟の十河一存のことであるようだ。だから周辺には十河一存三好長慶三好義賢を配置しておいた。