北の戦国時代論について

新羅之記録』に「自康正二年夏迪大永五年春、破東西数十日程中住所村々里々、殺者某事、起元於志濃里鍛治屋村也。活残人集住皆松前与天河」とあることを根拠にして15世紀半ばから16世紀半ばまでアイヌと和人が戦争状態だった、とされている。しかし発掘成果からはそれを否定するものも上がりつつある。
で、『新羅之記録』を見てみるとそもそも16世紀前半にならないと和人とアイヌの戦闘記事が出てこない。康正二年というのが武田信広の原点とされているのでやたら強調されているので、一連の流れとして把握したくなるのだろうが、そこから疑うべきではないか、と最近考えている。
それとだまし討ちの件だが、いまふと思ったのは、信広の伯父に当たるとされている武田信栄が一色義貫を討った時もそうだったな、と。

大永五年の「蝦夷蜂起」

書いてたらフリーズして消えたので意気消沈。
『福山秘府』に以下のような記述が見える。

同〔大永−引用者注〕五年乙酉
松前年代記曰、春東西之蝦夷蜂起、人亡者多矣。無恙者住於松前与天河。

新羅之記録』には以下のようにある。

自康正二年夏迪大永五年春破東西数十日程中住所村々里々殺者某事、起元於志濃里之鍛冶屋村也。活残人集住皆松前与天河。

1456年のコシャマイン戦争から1522年までアイヌと和人が戦っていたようなイメージである。進藤透氏はそこを踏まえて、七十年の出来事の結果として、生き残った和人は松前と天河に集住するようになった、という文章を、最終的に松前広長が大永五年のアイヌ蜂起と認識し、記してしまった、とする(『松前景広「新羅之記録」の史料的研究』、2009年、345ページ)。
松前旧事記』にも大永五年の蜂起が見える。本当に大永五年に至るまでの七十年の結果なのだろうか。大永五年という年号には意味はないのだろうか。
日高町から出土した賀張古銭がある。最新の銭は宣徳通宝である。1433年初鋳の宣徳通宝が日本で流通するのは16世紀に入ってからであろう。とすれば賀張に銭を埋めた和人は16世紀までは鵡川にいたのではないか、と中村和之氏は考える。
とすれば、70年かけて徐々に和人がアイヌに圧倒されてきた歴史像が成り立たないかもしれない事を示している。アイヌと和人の関係は一貫して対抗関係にあった、というのは『新羅之記録』の図式ではあるが、それが正しいのか、を考え直す必要がある。
で、大永五年というのはどういう年だろうと思って大永五年に至る年表を作っていると、夷と狄の使い分けに着目すると面白い事に気付いた。夷との戦いが集中する時期があり、狄との戦いが集中する事もある。夷とは東部のアイヌを指す事が多いが、アイヌ全体を指す事もある。狄は西部のアイヌにほぼ限定される。特にセタナイが目につく、気がする。セタナイといえば茂別下国氏の終焉の場所でもある。茂別下国氏は松前の蠣崎氏を頼らずにセタナイのアイヌ、おそらくはハシタインを頼ったのだろう。
で大永五年の直後に京都では細川高国の没落が近づいている。高国は湊安東氏や琉球王国との関係を再構築しようとした、という黒嶋敏氏の指摘もある。とすると御内書引付に安藤氏宛の御内書や琉球国王宛の国書が収載されている理由も少し明らかになってくる、かもしれない。

対訳『椿葉記』31

かくて院の御所にわたらせ給。さる程に内裏は廿日崩御なりぬ〈諡号称光院〉。践祚の事いまはひしひしとさだまりて、禁中は触穢なれば、三条前右府〈公冬公〉の亭を点じめされて新内裏になさる。俄に修理せられて殿舎などつくりそへらるゝとぞきこえし。同廿九日新内裏へ渡御なる。院の御猶子の儀にて践祚あり。よろづ旧規にかはらず。御歳十歳にならせまします。めでたさも世の不思議なれば天下の口遊にてぞ侍る。

称光院-

このようにして院の御所にお渡りになった。そのうちに内裏は二十日に崩御となった(諡号称光院〉。践祚の事、今は次々に定まって、宮中は触穢なので三条前右大臣の亭を接収して新内裏にした。俄に修理して殿舎などを作ったという事である。同廿九日新内裏へ渡御した。院の猶子という事で践祚した。全て旧規に変わらなかった。御歳十歳におなりになった。めでたさも非常に凄い事であったので天下の評判になった。

対訳『椿葉記』30

御共には綾小路前宰相経兼卿・庭田三位重有卿・綾小路中将長資朝臣、女中按察殿〈庭田三位女〉、御乳人などまいる。忠意僧正もいかゞともてなし奉りて四五日御逗留あり。さて室町殿より関白〈二条〉を以て、事の子細を仙洞へ申さるゝ程に、同十七日仙洞に入申さる。室町殿より御車・番頭いしいしまいらせらる。綾小路前宰相・庭田三位、御車の後にまいる。長資朝臣・隆富朝臣供奉す。管領父子まいる。御車の前後に数百人警固にまいれば、道すがら見物の人もおほくて、月はことさらすみわたりて、御ゆく末の嘉瑞も空にあらはれ侍る。目出さも思ひよるきはならねば、おがみたてまつり、ほめのゝしり申とぞきこえし。

綾小路前宰相経兼-田向経良。永享二年に義教の義の字と同音である事を憚り経兼と改名する。
庭田三位重有-庭田家は伏見宮家の外戚で、重有のきょうだいにあたる幸子は貞成の妻、重有のおばの資子は貞成の祖母。田向、綾小路、庭田はいずれも宇多源氏
綾小路中将長資-経兼の子。
按察殿-庭田重有の娘。
忠意僧正-若王子神社の社僧。
関白-二条持基
仙洞-後小松院。
隆富-西大路隆富。四条家の分家。
管領父子-畠山満家、持国。

お共には綾小路前宰相経兼卿・庭田三位重有卿・綾小路中将長資朝臣、女中按察殿、乳母などがまいったq。忠意僧正も何くれとなくもてなし奉りて、四五日御逗留があった。さて室町殿より関白を通じて事情の詳細を仙洞へ申して、十七日に仙洞御所へ入り申された。室町殿より御車・牛飼など次々に進上された。綾小路前宰相・庭田三位、御車の後に参った。長資朝臣・隆富朝臣も供奉した。管領父子も参った。御車の前後に数百人の警固が参ったので、道すがら見物の人もおおくて、月はことさらに澄み渡って、御行末の嘉瑞も空に表れていた。めでたさも思いよる際限がないので、拝み奉り、口々に褒め称えたと聞こえてきた。

対訳『椿葉記』29

御位の望にて御謀反の企ある由、世中さはぎ申程に、七月十二日夜中ばかりに、世尊寺宮内卿行豊朝臣伏見殿へ馳参、三宝院准后の御使にて室町殿より申さるゝ趣は、宮御方明日京へなし申されよ、まづ東山若王子へ入申されて警固申さるべきなり〈赤松左京大夫入道警固仰付らる〉。御服などは勧修寺に仰付らる。御迎には管領参べしと申されしかば宮中上下のひしめき、夢うつゝともおぼえず。めでたさも申もなをざりなる心ちして、俄の御出立かたのごとく取まかなひて御迎をまつほどに、十三日の夕がた程に、管領の手の物ども四五百人まいりぬ。やがて出御、御輿にて内々若王子へ渡御なりぬ。

三宝院准后-満済
宮御方-彦仁王。
赤松-満祐。
管領-畠山満家
勧修寺-勧修寺経成。義教時代の武家伝奏の一人。あとは万里小路時房と広橋親光。

天皇の位を望んで御謀反の企てがあるという事を世の中が騒いでいるうちに
七月十二日夜中のころ世尊寺宮内卿行豊卿が伏見殿へ馳せ参じて、三宝院准后の使者として室町殿より申される内容は、「宮御方は明日京へお移し申し上げよ。まず東山の若王子にお入れになって警固を致しましょう。赤松満祐が警固を仰せつかった。必要な服などは勧修寺に仰せ付けた。お迎えには管領畠山満家がまいるでしょう」と申されたので宮中は上へ下への大騒ぎ、夢うつつであった。めでたさも発言するのもはばかられる心地がして、突然の出立のように準備をしてお迎えを待っているうちに
十三日の夕方頃に管領の手の者四五百人参った。やがて出御
御輿にて内々若王子に渡御した。