式目42条における「逃毀」と「去留」

御成敗式目42条における「逃毀」について、解釈の違いを示しておこう。
一応読み下し文を再掲しておく。

一、百姓逃散の時、逃毀と称して損亡せしむる事
右、諸国の住民逃脱の時、その領主ら逃毀と称して、妻子を抑留し、資財を奪ひ取る。所行の企てははなはだ仁政に背く。もし召し決せられるるの処、年貢所当の未済あらば、その償ひを致すべし。然らずば、早く損物を糺し返さるべし。ただし、去留においてはよろしく民の意に任すべきなり。

この条文は次のように3つに分けられよう。

一、百姓逃散の時、逃毀と称して損亡せしむる事
1 右、諸国の住民逃脱の時、その領主ら逃毀と称して、妻子を抑留し、資財を奪ひ取る。所行の企てははなはだ仁政に背く。
2 もし召し決せられるるの処、年貢所当の未済あらば、その償ひを致すべし。然らずば、早く損物を糺し返さるべし。
3 ただし、去留においてはよろしく民の意に任すべきなり。

まず1。「諸国の住民の逃散の時、地頭らが逃毀と称して妻子を抑留し、資材を奪い取る」という部分の解釈であるが、問題は「逃毀と称して」というところである。今のところ通説的見解を占めているのは1980年に入間田宣夫氏による年貢などを納めないまま逃散する農民の行為である、という見解である。その前提には、「逃散」という行為が一定の手続き(入間田氏によれば「一味神水→申状・起請文→逃散」)を踏めば合法的な闘争として位置づけられていたことがある。その後もさまざまな見解が出されるが、ベースは入間田氏の「逃散」論をベースにしている。そこで入間田氏の議論を踏まえて訳を出すと、「諸国の住民の逃散の時、地頭らが逃毀と称して妻子を抑留し、資材を奪い取る」という部分は次のように訳されることになるだろう。「諸国の住民が合法的に逃散している時に、地頭らが年貢などを納めないまま逃亡し、領主に損害を与える「逃毀」である、と言いがかりをつけて妻子を抑留し、資材を奪い取るという行為は仁政に背く行為である」と。
次に2の「もし召し決せられるるの処、年貢所当の未済あらば、その償ひを致すべし。然らずば、早く損物を糺し返さるべし。」という部分の解釈である。ここは比較的あっさりと解釈されることが多い。つまり「もし裁判になった場合、年貢所当の未済があれば、弁済させよ。年貢所当の未済がないのであれば、没収した損物を早急に返却させよ」ということになるだろう。
一見議論の余地がない部分に見えるが、そもそもここでの裁判はだれか、と言えば、「百姓」と地頭である。「百姓」が地頭を訴え、地頭が敗訴する、ということ自体がかなり注目に値することであると思われる。
この部分に関連すると思われる「追加法269条」(建長2《1250》年6月10日制定)を示しておこう。

一 雑人訴訟事
百姓等与地頭相論之時、百姓有其謂者、於妻子所従以下資材作毛等者、可被糺返也。田地并住屋令安堵其身事、可為地頭進止歟。(『中世法制史料集 第一巻』)

一応読み下し文と現代語訳を。

(読み下し)
一 雑人の訴訟の事
百姓らと地頭と相論の時、百姓に其の謂あらば、妻子所従以下資材作毛等に於ては、糺し返さるべきなり。田地ならびに住屋は其の身に安堵せしむる事、地頭の進止たるべき歟。
(現代語訳)
一般庶民の訴訟の事
百姓らと地頭が裁判になった時、百姓が勝訴した場合、妻子・所従(百姓の召使い)・資材・作物などは、返却しなければならない。その百姓の田地や家屋をその百姓の元に引き渡すのは、地頭の責任である。

これは式目42条の「然らずば、早く損物を糺し返さるべし」という部分をより詳しく説明したものに他ならない。こうした法令が出される背景には、もちろん地頭による苛烈な支配とそれに抵抗する「百姓」の激烈な階級闘争が存在したはずである。本来の順法闘争として法にも認められた「逃散」の手続きを踏んだ闘争であっても、地頭の恣意的解釈によって違法な「逃毀」とみなされ、財産などを没収される事例が頻発していたことを、この条文自体が示している。従って順法闘争と違法闘争を厳密に定義し、「百姓」の順法闘争を保障するのがこの条文の法意である、と考える。その意味で、私はこの部分にこそ、この条文の肝がある、と考える。
3は「但し書き」であって、条文本来の注目ポイントではないだろう。ただ「去留」という文言をめぐって研究史の解釈が大きく揺れ動いた、ということに他ならない。この「去留」文言については、追加法289(建長5《1253》年10月1日制定)「土民去留事」という法令とセットで考えられなければなるまい。この点の考察は後に譲ることにしておいて、ひとまず「去留」の意味について検討しておこう。かつては「去留」を民の意に任せる、という文言から、中世における「百姓」の移動の自由を保障した法令である、として網野善彦らによって考えられてきたが、安良城盛昭による網野批判の中で安良城は逃散によって地頭館に抑留されている妻子・所従の「去留」を問題にしており、言い換えれば抑留された「妻子・所従」がもとの家に「居留」する権利である、と考えている。安良城が「去留」の対象を「百姓」の「妻子・所従」と考えているのに対し、現在多くの説は「去留」の対象はあくまでも「百姓」そのものであり、逃散中の「百姓」を強制的に連れ戻すことを禁止している、と把握している。
問題はこの3の部分がどこにかかるのか、というところである。安良城は2の後半部分にかかる、と考えている。安良城の「解析図」を元にこの解釈を作ると次のようになる。

1 諸国住民が逃散する時に、地頭が「逃毀」と言いがかりをつけて妻子を抑留したり、資財を奪い取ったりする。これは仁政に背く。
2−1 訴訟で年貢の未済があるという場合には弁済させなければならない。
2−2 年貢の未済がない場合には資財を速やかに返却しなければならない。
3 但し抑留された妻子の去留については民の自由である。

これに対して「去留」の対象を「百姓」一般に広げる解釈であると次のようになるだろう。

1 諸国住民が逃散する時に、地頭が「逃毀」と言いがかりをつけて妻子を抑留したり、資財を奪い取ったりする。これは仁政に背く。
2 訴訟で年貢の未済があるという場合には弁済させなければならない。年貢の未済がない場合には資財を速やかに返却しなければならない。
3 但し年貢を完済した場合の去留については民の自由である。

この場合、「百姓」には地頭の支配を離れて行動する自由はあった、ということになる。日本中世においては「百姓土地緊縛法」が欠如している事実がその背景にはある。それは日本中世の生産力の低劣さがさらに背景にある。日本中世は今日の我々の想像を絶する低生産社会であった。農村も荒廃ー再開発の繰り返しによって「百姓」の定住は不安定な状況であった。「開発」=新たに田地を整備する時には、「浪人」を招いて行わせていたのである。そういう意味では日本中世の「百姓」は土地に緊縛された存在ではなかったのだ。
それを背景として年貢・公事の基盤としての「百姓」経営の安定化が幕府にも必要となり、目先の利益に押されて「百姓」を債務を理由として抑留し「下人」化することで、自己の財産を増やそうとする地頭の動きを抑制しなければならない状態になっていた、と考えられる。
この「去留」文言の細則である追加法289は、一連の「撫民」関連法である。その意味で式目42条は「撫民」法の先駆けとも言えるのである。次は「撫民」法をみていきたい。