御成敗式目42条

北条重時の政治思想に関わって、「撫民」の事例をいくつかみていきたい。中世社会は基本的に「自力救済」つまり「自己責任」の世界である。自己責任を否定し、弱者救済を行うことを「撫民」という。鎌倉幕府ではさまざまな「撫民」政策を展開した。その一つが御成敗式目の42条である。この条文は御成敗式目の中でも最も有名な条文である。ただし研究者限定であるが。まずは本文をみておく。

一、百姓逃散時、称逃毀令損亡事
右諸国住民逃脱之時、其領主等称逃毀、抑留妻子奪取資財、所行之企甚背仁政、若被召決之処、有年貢所当之未済者、可致其償、不然者、早可被糺返損物、但於去留者宜任民意也、

読み下し。

一、百姓逃散の時、逃毀と称して損亡せしむる事
右、諸国の住民逃脱の時、その領主ら逃毀と称して、妻子を抑留し、資財を奪ひ取る。所行の企てははなはだ仁政に背く。もし召し決せられるるの処、年貢所当の未済あらば、その償ひを致すべし。然らずば、早く損物を糺し返さるべし。ただし、去留においてはよろしく民の意に任すべきなり。

この条文がなぜ有名になったか、と言えば、日本中世の本質にかかわる問題と考えられたからである。戦前においては日本中世の土地制度を西洋のフューダリズムになぞらえる見解が主流であった。そしてそのフューダリズムに「封建制」の訳語をあてて考察が行われたのである。「封建制」は「農奴制」ともいい、農奴と領主の間の支配被支配関係が基本となる。農奴は土地に緊縛された農民で、彼らには移動の自由はない。日本中世の「百姓」は西洋フューダリズムのもとでの「農奴」に相当する、と考えられてきたのである。しかし42条の「ただし」以降の文言である「去留においてはよろしく民の意に任すべきなり」という部分の解釈如何では、日本中世の「百姓」は移動の自由を持つ「自由民」である、ということになりかねない。網野善彦は式目42条を以て「百姓」の移動の自由の保障とみなし、さらに42条の根拠となったものは、人民の「本源的自由」であると主張しようとした。
それに対し永原慶二は年貢公事の未済を償わせる側面に重きをおくべきと考え、「百姓」の移動の自由の存在を否定する。
ただこの条文だけではあまりにも内容が簡潔で、現代語訳しようにも、あちらこちらで解釈が分かれる。とりあえず表面的な字面を現代語訳する。

一、百姓が逃散の時に「逃毀」と称して百姓の生活基盤を破壊する事
右、諸国の住民が逃げ出した時、その領主(地頭)らが「逃毀」と称して、妻子を拘禁し、資材を奪い取る、という行為は仁政に背く。もしこのことが訴訟になった場合、年貢・所当が未済であれば、百姓に弁済させる。もし年貢・所当が完済されていれば、没収した損物(妻子・財産)は早急に返却されなければならない。但し年貢完済した百姓は去るも留まるも百姓の意向に任せられるべきである。

細かい話はまたいつか。最近の研究動向がよく分からんので。