西の巨人への道

FA制度が導入され、「金満球団」と揶揄される巨人に有力選手が集中する傾向が強まった。資金を投入してFA選手をかき集めるか、資金を節約して選手の育成を重視するか。前者の代表は巨人であり、パリーグや広島・ヤクルト・中日から落合博満広澤克実清原和博江藤智といった他球団の4番、川口和久河野博文工藤公康前田幸長といったエース級を次々と獲得していった。同じく資金に余裕のある阪神も主としてオリックスから石嶺和彦山沖之彦を獲得していたが、いずれもあまり活躍せず、FAでの補強に成功したとはいえなかった。阪神は育成も出来ず、FAによる戦力補強も出来ず、外国人獲得による補強も出来ず、下位に低迷していた。
99年、阪神に転機が訪れる。80年代はお荷物球団だったヤクルトスワローズを90年代に常勝軍団に変貌させた野村克也を招聘したのである。これまでほとんどOBで占められていた監督人事に他球団のOBが入ることは珍しく、注目を集めた。
しかし成果は現れず、最下位に低迷し続け、野村は2年目*1のオールスター期間中にオーナーの久万俊二郎に面会を求めた。「組織はリーダーの力量以上には伸びない」と考え、リーダーであるオーナーの意識を変える必要を感じたからである。その会談には阪神電鉄社長で次期オーナーの手塚昌利も同席していた。
野村は開口一番*2久万に問い掛ける。
阪神ではチーム成績が悪いと監督が次々に代えられていますが、監督を代えたらチームは強くなると思っていませんか?」*3
久万は答える。
「絶対ではないが、でも監督によってチームは強くなるんじゃないかね」
その返答に(やっぱり)と思った野村は続けた。
「監督によってチームが強くなる、そんな時代はもうとっくに終わりました。監督を代えれば勝てたのは根性野球だ、精神野球だという時代までです。昔は野球の本質を理解せずに野球をやっていたから、そこに少し頭脳を加えただけで勝てたのです。メジャーへの移籍やメジャーの実況、日米野球などでアメリカからの知識も入ってくる時代です。新しいものは考えつかない時代になっているんです。あなたは古い考えだけで私を引っ張ってきたのではありませんか」
久万は黙っていた。しかし顔面が朱をさしたように赤くなる。野村は構わず続けた。
「そんな古い考えは即座に捨ててください。だいたい阪神は競合するとすぐ諦めてしまうじゃないですか。その選手が10年に一度の選手ならば何億つぎ込んだってすぐもとはとれる。巨人が10億出すのならば、その倍出しましょう、というくらいの意欲を見せてほしいと思います」
だまる久万を相手に野村は続けた。
「今の野球はお金がかかりますよ。オーナーを始め、プロ野球のトップの方々が野球界をそういう方向に向けてしまったんじゃないですか」
野村はヤクルト時代にFAで広澤克実、さらには外国人選手のジャック・ハウエルを巨人にとられながら、チームを再建していった経験がある。その野村が「金がかかる」と言う。「巨人よりも金を出せ」という。久万は野村に反論した。
「じゃあ、君は今、巨人のやっていることが正しいと言うのかね」
阪神オリックスからFAで星野伸之石嶺和彦を獲得していたが、一方で巨人を「金満球団」と揶揄もしてきた。そのプライドが久万をして野村の言葉に反発させたのである。
怒りに顔面を真っ赤にした久万に向かって野村は言い放った。
「ある意味では正しいと思いますよ。時代に合っています。とにかくエースと4番を獲ってください」
久万は野村に反論する。
「君はいいにくいことをはっきり言うね。毎年たくさんの選手を入団させているのだから、野村君のキャリアと実績があればエースも4番も育てられるだろう」
野村は意を決して久万にさらに厳しい言葉を投げつける。
「なるほど、わかりました。失礼ながら阪神がここまで低迷している第一の原因はオーナー、あなたですよ。阪神の歴史で4番を思い起こしてください。最近ではバースだ、オマリーだ、田淵だ、彼らは阪神が育てたのですか。連れてきたんじゃないですか。掛布だけは育てたといっていい。ならば次の掛布が育つまであと60年待ちますか」
言葉に詰まった久万に野村は説いた。
「生意気なことをいうようですが、人間3人の友をもて、というじゃないですか。原理原則を教えてくれる人、師と仰ぐ人、直言してくれる人。オーナーには直言してくる人がいないんじゃないですか。みなオーナーが気持ちよくなる話しかしてこないでしょう」
落ち着きを取り戻した久万はぼそっと「それはそうだなぁ」とつぶやいた。
野村は「まずオーナーに変わってもらわないと、阪神は代わりません。生意気を言わせてもらいますけど、我慢して聞いてください」
野村は組織論から説明していった。
「組織は中心がいないと機能しません。これは大原則です。私にオーナーが監督要請に来た時に何をおっしゃったか、もうお忘れですか。『全面的なバックアップをするから』とおっしゃったじゃないですか。だから私は一番最初にエースと4番を獲ってくれとお願いしました。ところがこれまでのドラフトはなんですか。一年目は高校生の藤川、二年目はひざを故障している的場*4。何が全面的なバックアップですか。外国人だって同じです。10年以上低迷しているからこそ、即戦力が必要なのではないですか。」
久万は後日もらした。「野村のいうことはいちいち腹が立つけれども、よく考えてみるともっともだなあ」と。
2001年オフ、日本ハムビッグバン打線の3番を務めた片岡篤史がFA宣言する。野村は獲得に乗り出すが、野村自身が夫人の沙知代の不祥事で辞任に追い込まれる。野村の進言により星野仙一を監督に招聘した阪神は片岡の獲得に成功する。
2002年オフ、星野は大幅な球団改革に乗り出す。3分の1に及ぶ選手を解雇する。西川慎一投手を除いて他球団に採用された選手はいなかった。その上でFA選手の金本知憲中村紀洋、さらにはヤクルトを退団したロベルト・ペタジーニの獲得を表明するなど、なりふりかまわぬ補強に打って出る。Bクラスに転落した2004年オフにはアンディ・シーツを、優勝を逃した2007年オフには新井貴浩を、5年ぶりのBクラスに甘んじた2009年オフには城島健司を、それぞれ獲得した。野村が久万に迫った「野球は金がかかる」という教えをある意味忠実に守っているのである。
野村は『巨人軍論』でいう。「補強に力を入れるのは、チームを何とか強くしたいという思いの表れである。その意味で、毎年のように大型補強をくり返す巨人は、決して間違っていないのである。ただ資金力をバックにした補強の内容が的を射ていないのが問題なのである」と。原辰徳の指揮する巨人が強いのは、的を射た補強を行い、チームが強くなった段階で恐れずに若手の抜擢を行う、という補強と育成のバランスがとれているからである。現在のNPBの体制では補強に金をかけるのは必然である。ヤクルトは相川亮二を横浜からFAで補強したからこそ、今年のAクラスがある。補強も育成もできない横浜は論外だが、育成だけではチームは決して強くならないのは広島を見れば明らかである。世代交替に失敗し、高齢化による衰えが目立つ阪神に最後に競り敗けたのは広島が補強に不熱心だったからである。
野村は『あぁ、阪神タイガース』でその後の阪神をこのように総括している。

私が久万オーナーに改革の必要性を訴え、幸いなことに星野がそれを実現させ、結果を出したことで、「目先の利益にとらわれて、長期的展望に立てない」という典型的な大阪商人体質(?)が染みついていた阪神球団も、金をかければかけただけの効果があることを理解したはずだ。ところが、球団には「星野は金がかかりすぎる」という不満があったという。それが星野辞任の一因になったという噂も聞いている。
以前、阪神電鉄村上ファンドに買収されかけたことがあった。誤解を恐れずにいえば、いっそのこと買収されたほうがよかったのではないかとさえ思った。(186〜187頁)

阪神タイガースの「西の巨人」・金権球団への変貌の扉を開いたのは、皮肉なことにヤクルト・楽天で育成に手腕を発揮した野村克也だったのである。野村が久万に「野球にはお金がかかる」と言わなければ、星野仙一の招聘もなく、補強に金を使うこともなく、今でも下位に低迷していたであろう。しかし阪神には常に金を惜しむ体質がついて回る。「巨人のようでいいのか」という美名のもと、球団が金をかけないことを正当化する風潮はいまだ抜けない。野村のこの一言を噛みしめなければならない。
「今の野球はお金がかかりますよ。オーナーを始め、プロ野球のトップの方々が野球界をそういう方向に向けてしまったんじゃないですか」

*1:この会談を回想した野村克也氏の著作は『野村ノート』(小学館、2005年、130〜137頁)、『巨人軍論』(角川書店、2006年、16〜17頁、『あぁ、阪神タイガース』(角川書店、2008年、87〜89頁)。『野村ノート』では3年目の2001年、『巨人軍論』や『あぁ、阪神タイガース』では2年目の2000年となっている。どちらが正しいのかは即断しがたいが、久万−野村会談を受けた球団改革の担い手として2000年7月に就任した竹田邦夫常務と思われる人が「熱血漢の取締役が球団に出向し球団常務として編成部を含めたトップになった」とあることから、2年目の2000年の可能性が高い。

*2:『あぁ、阪神タイガース』ではその前に辞任を申し入れたことになっているが、他の二冊では「まず」「開口一番」と最初から戦力補強の必要性を説いている。

*3:以下の会話は一番詳細な『野村ノート』を底本とし、必要に応じて他の著書を参照する。

*4:『野村ノート』ではここに「3年目はひじを壊している藤田太陽」という記述があるが、前述の通り、この会談が2000年だとすると、当時はまだドラフトで藤田太陽選手を獲得していないので、ここでは外した。