もし鎖国しなかったら

冨平さんのリクエスト。
江戸時代、鎖国が行なわれ、日本は世界の動きから取り残された、という鎖国。逆に日本独自の文化が栄え、日本が先進国の仲間入りしたのは鎖国のおかげ、というあれ。
実は「鎖国」という言葉自体舶来ものだ。初見は志筑忠雄という幕臣の「鎖国論」という著作の表題だが、これはイギリス人ケンペルの著作の翻訳。ケンペルは時の大英帝国重商主義へのアンチテーゼとして、日本を自給自足が実現したユートピアとして描いた。徳川家斉時代、外国が頻繁に往来し、幕閣がそれへの対応能力を失いはじめた時、「鎖国」を家光公以来の「祖法」と位置づけ、異国船打払令を出し、反対勢力を弾圧した。つまり今日われわれが見ている「鎖国」とは江戸時代末期の統治者能力を失った幕府が過去に仮託した偽の「伝統」だったのだ。
では家光の時の「鎖国」とはどのようなものであったのか。当時日本にきていた外国を検討しよう。まず明、それから朝鮮、そしてポルトガル、スペイン、イギリス、オランダ、琉球蝦夷地である。そのうち政府間交渉が行われていたのは朝鮮王朝との間だけ。他は通商関係。琉球は島津氏による征討以来、事実上編入されていたが、建前上は明・清の冊封を受ける国としての形は残した。その方がもうかるからだ。
西洋諸国の撤退状況を見てみると、まずはイギリス。これはオランダとのヘゲモニーレースに敗北する。スペインもしかり。そもそもスペインはポルトガルとの抗争にも破れて事実上東インド地域からの撤退を余儀なくされていた。日本によるスペイン船来航禁止は大したことではない。ポルトガルはオランダとの抗争に敗れ、江戸幕府はオランダを通商相手としてえらんだにすぎない。江戸幕府自体が自覚的に西洋諸国との交渉を絶ちきったのではない。
では外国への渡航禁止をどう見るか。これは「日本型海禁」といわれるものだ。「海禁」とは正しくは「下海通蕃の禁」と言われ、明律で出てくる言葉。「下海通蕃」つまり他者との交流の「禁」つまり政府による独占である。これは江戸幕府の専売特許ではない。室町幕府も行なっていた。清も朝鮮も行なっていた。というよりも室町幕府の外交関係を見れば了解されるが、「海禁」を守らせることは、冊封を受ける国の義務だったのだ。江戸時代の場合、明・清から強制されたものではなく、江戸幕府が独自に海禁政策を実行した。それが「日本型海禁」と呼ばれる所以である。征韓論と呼ばれるものも、実像は海禁を解かせるべく動こうとしただけで、侵略を考えたものではない、という説もある。唱えているのは旧幕臣勝海舟だが。
で、結局徳川日本が関係を持っていた対外関係を整理すると、政府間関係としての朝鮮、通商関係としてのオランダ、明・清、島津氏を介した琉球松前氏を介した蝦夷地となる。で、朝鮮との窓口である対馬の宗氏、オランダ・清の窓口である長崎、琉球との窓口である薩摩、蝦夷地との窓口である松前、この四つの地域を徳川日本の「四つの口」という。この「四つの口」を介した徳川日本の対外関係を「日本型海禁・華夷秩序」というのである。決して江戸時代の日本は孤立していたわけではない。徳川日本がオランダを選んだのも決して誤った情勢判断ではない。一六〇〇年代に始まったといわれる世界システムの初代ヘゲモニー国家がオランダだったことと、徳川日本の選択は無関係ではない。また西洋の技術や文物は出島を介して入ってきていた。江戸幕府オランダ語の通訳を幕府に一本化することで独占し、それを分配することで、自己の権威としてきたのだ。これは北条氏や足利氏が元や明の文物を輸入し、分配することで「唐物」への憧れを通じて文化をリードしたのと同じことだ。
朝鮮通信使対馬から江戸までやって来たことで、一般人が広く受容できる唯一の「異国」であった。そもそも江戸幕府の「正学」であった林家の儒学自体朝鮮儒学の系譜に位置づけられるのは周知の事実である。そして朝鮮通信使の行列が美々しく朝鮮王朝の威儀を宣伝し、それに人々が熱狂すればするほど、徳川幕府の威光もいやがうえにも高まろうと言うものである。朝鮮通信使を通じた「日朝友好」は徳川日本、朝鮮王朝両者にとってメリットの大きいものであった。だから双方にとってメリットが小さくなれば消極的になっていくのである。
ただ「唐物」や「朝鮮通信使」を単に外国への憧れ一色でユートピア的に把握するのも間違っている。憧れと同時に差別も含んでいる。それがないまぜになっているのだ。日本も朝鮮も自己中心の世界像を結んでいた。非中華である清が中華を乗っ取った。これを「華夷変態」と呼ぶ。「華夷変態」以降、日本も朝鮮も自らを「中華」と位置づける。この中で「日本型華夷秩序」が成立する。「日本型海禁・華夷秩序」はこうして成立する。もう少し細かく見て行くと色々あるのだが、省略。
このような関係が変容するのは世界システムヘゲモニー国家がオランダからイギリスに変わること、またロシア・アメリカの太平洋進出が原因である。ロシアと通商関係を結ぶことを視野に入れた松平定信は失脚し、ロシア対策として蝦夷地の日本編入が急がれ、新参者であるアメリカの通商要求には「祖法」としての「鎖国」を持ち出しつつ、国内世論を押さえ込む。このころ幕府は明らかに国際情勢の急変に対応できず、「鎖国」を「祖法」として押し付けて行くことで先送りを計ったのである。水野忠邦の時代にはアヘン戦争で大国清が破れ、日本もその圧力に対抗する必要が生じたが、もはや実効性を挙げられないまま、水野失脚、江戸幕府の方針は迷走する。そうなると「祖法」という虚偽の伝統に縛られて何も出来ないまま、「鎖国」は継続する。その方針は黒船来航でついに終焉を告げ、幕府滅亡につながって行く。
結論を言えば、「鎖国」自体が江戸時代末期に作り出された虚像であり、江戸幕府が「鎖国」と言っていたのがたかだか五〇年ほどなので、鎖国をしていなかったらどうなっていたか、という質問にはあまり変わらなかったと思われる、というのが答えになるだろう。むしろ近代日本の成否を分けたのは、「万国公法」と言う名の西洋中心の国際法秩序に対応できたか否か、ということになろう。
また話を対外関係にしぼったが、国内の経済発展については「マニュファクチュア論」や「世界システム論」など様々な視野から論じることができるだろう。