「伝統」重視の政治

鎌倉時代末期に鎌倉幕府の対朝廷政策を持明院統寄りに舵を切らせた安達時顕とは何者か。安達氏と言えば霜月騒動で滅亡したはずではないのか。
霜月騒動とは、北条時宗死後の幕府をリードし、弘安徳政を実施した安達泰盛を、対立する得宗御内人平頼綱が滅ぼした事件である。背後には大佛流北条宣時がいたとも言われる。しかし安達一族は完全に滅亡しなかった。泰盛の兄関戸頼景は生き残った。二月騒動で北条時輔派と見なされて没落し、頼綱からも相手にされていなかったのである。泰盛の甥の宗顕は討たれた。しかし宗顕の子どもは生き残った。おそらく泰盛の妹で時宗の妻、貞時の母である堀内殿の存在が大きいのだろう。安達一族は族滅を免れ、所領の多くはモンゴル戦争の恩賞に使われたが、一部は堀内殿の管理となった。
時代はめぐって頼綱が貞時・宣時に見切りをつけられ、粛正された後、泰盛ゆかりの人々が復権した。しかし黒幕の宣時が実権を握り続ける以上、幕府の基本方針が変わったわけではない。あくまでも、宣時のもとで政治的に活躍する場を与えられただけである。金沢実時の子の顕時も許されて息子の貞顕が政界にデビューする。
その後宣時と貞時の対立の中で、ハレー彗星という天譴を利用した貞時は宣時を道連れに出家し、得宗一門の師時・宗方を政権の中枢に入れ、得宗家による専制体制を構築しようとする。宣時らは一門の長老北条時村連署に就任させ、対抗する。嘉元の乱で時村と宗方が相打ちになり、宣時の子の宗宣が実権を掌握し、師時死去を受けて執権に就任し、時村の孫の煕時が連署に就任する。
師時死後一ヶ月で貞時もまた失意のまま死去するが、貞時が後事を託したのが平頼綱の甥の長崎高綱と、安達泰盛の甥の子どもの安達時顕であった。貞時は父北条時宗の時代を理想像とし、その復活を夢見たのである。
執権宗宣は執権在任半年あまりで病死、煕時が執権に昇任するが在任三年で病死する。このころになると高時も13歳になっていたので、執権に就任してもよさそうなものだが、実際に執権に就任したのは極楽寺流普音寺基時であった。執権は基本的に終身職であり、辞任する場合は出家して引退することとなっていたので、基時は31歳で執権退任、出家ということになる。それでも執権を置くことにこだわった点に、高時政権を作り上げようとする人々の「伝統」に対する執念をみることが出来る。つまり高時を何が何でも14歳で執権に据えたいのである。これは時宗・貞時が執権・連署に14歳で就任している先例を踏襲しようとしたのであろう。
高時政権が時宗政権を先例としたことは、高時政権の人事にも現れている(細川重男氏『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館による)。高時政権で力を持っていたのが長崎高綱・高資父子と安達時顕である。これは時宗政権を先例として踏襲した結果である。時宗政権で重きをなした安達泰盛と同じ地位である秋田城介、引付五番頭人の地位を与え、外戚として重用した高時政権において安達時顕は、高時政権をリードする存在となったのである。時顕と高綱・高資の地位は抜きんでていたようで、当時の鎌倉幕府の首脳であった赤橋守時金沢貞顕よりも発言力が大きかったのだが、それは「伝統」の力であった。
ただ注意すべきは、高時政権がその構成までも時宗政権を先例としたのは、偶然ではない、ということである。どのような意図があって時宗政権を「伝統」として押し付けたのか、ということを明らかにしなければ、家格秩序のみで政治史を説明することになる。
細川重男氏は『鎌倉政権得宗専制論』の「北条高時政権の研究」において「高時政権における長崎高綱・安達時顕の権力基盤は彼らの家の伝統と家格にあったのであり、つまりは高時政権においては形式こそが実質であった」と結論づける。それに対し秋山哲雄氏は細川氏著作の書評(『歴史学研究』752号)において北条宣時が昇進する理由が不明確である点や、安達時顕の復権を家格秩序に求めることに疑問を呈し、「家格秩序の形成や固定の歴史的変遷が必ずしも明らかではない」と批判する。
私見では時宗政権を「伝統」と考える思考は、自然発生的にできたものではない。「伝統」とはそれを主張するものに都合の良い「伝統」が創出され、それを「伝統」として没理論的に押し付けるための道具である。「伝統」という言葉で以て思考停止に陥らせることができる。問題は誰が、何のためにその「伝統」を作り上げたのか、ということである。時宗政権を「伝統」として作り上げたのは貞時ではないだろうか。宣時・宗宣と力を増していく大佛家を中心とする北条一門に対抗するために、長崎高綱と安達時顕を遺児高時を支える勢力として育て上げ、彼らによって補佐させることが目的だったのではないだろうか。しかし「伝統」は、それが作られたものであると意識されている間は有効だが、それが所与のものとして、守るべき規範として固定化されてしまうと、目的と手段が逆転する。本来高時政権を強化するために創出された「時宗政権の先例」という規範が、いつのまにか、それを守る事が優先となり、状況の変化に対応できなくなる。得宗御内人の影響が北条一門にまで及ぶようになり、例えば高時政権で長らく連署を勤めた金沢貞顕の伯母は、得宗御内人の五大院氏に嫁いでいた。そして高時の嫡子邦時を生んだのは五大院氏の女性である。貞顕と高資は一致して五大院氏を母に持つ邦時を推すことになるし、逆に得宗外戚の地位を確保したい安達氏は泰家を推すのである。そもそも邦時が擁立される事自体、時宗時代の「伝統」からは外れることであり、必ずしも「形式こそが実質」とは言いきれないのである。
結論を手短に言えば、高時政権が時宗政権を「伝統」として学んだことは事実だが、それは貞時が大佛家を中心とする北条一門の影響力を減殺することを狙った政治的言説である、ということである。