権門体制論をめぐる「こんにゃく問答」

石井進がその著書『日本中世国家史』の序章の「付、日本中世国家論の諸問題」において次のように黒田俊雄の権門体制論を批判している。

黒田氏の論文の冒頭の一節にこだわりすぎるようであるが、「古来島国として独自に存続してきた」「日本国」、という常識的感覚によりかかって、「中世国家論」を進めて行くことは、危険ではあるまいか。この常識的感覚の是認は、無意識のうちにも特殊歴史的な所産である近代的「国家権力」観を前時代的にもちこみ、古来存続しつづけてきたこの「日本国」の「国家権力」を超歴史的存在としてうけとらせるおそれがある。(21ページ)

「黒田氏の論文の冒頭の一節」とは、黒田の「中世の国家と天皇」の冒頭部分である。

日本歴史上、「中世国家」というとき、われわれはいかなる内容を予想するのであろうか。おそらく一般には、鎌倉・室町時代に「日本国」全体をまとめた一個の国家があったものと想定し、その支配=権力機構の具体的な内容を予想するであろう。ことに、日本が古来島国として独自に存続してきたことを強く意識するひとにとってはなおさらのことで、これがいわば常識的な感覚であろう。(『黒田俊雄著作集 第一巻』3ページ)

単純に黒田はその「常識的な感覚」に寄りかかっているわけではない。

ここでは、なによりも貴族・武士を含めて全支配階級が農民その他全人民を支配した諸々の機構を相対的に把握することを、目的としたい。(中略)公家と武家が、対立しながらも一つの国家を組織しつづけていたことこそが問題であるとおもう。

石井は次のように懸念を表明する。

まさに日本中世国家の特殊な性格を抽出し、認識するために構成された、といわれている「権門体制論」の精妙な理論構成に、このような危険は万々考えられないかも知れぬ。しかし、上記の常識的感覚の是認・肯定から出発しているかぎり、ひとはその危険からつねにまぬかれてあることはできないであろう。中世国家の特殊性を、単に「国家権力」分有の様態のみに見出そうとするかぎり、それはいまだ真の特殊性・歴史性の把握とはいいえないのではなかろうか。(22ページ)

黒田は石井の疑問を「中世に統一的な国家を想定できるか」とまとめた上で、次のように答える。

日本中世については具体的に「国家」があった事実をここで指摘したいのだというほかはない。(黒田『日本中世の国家と宗教』あとがき、554ページ)

議論がかみ合っていないように思えるのは私だけだろうか。「統一的な国家を想定できるか」「国家があった事実を指摘したいのだ」という問答をみていると「こんにゃく問答」を思い出してしまう。もちろん議論がかみ合わない最大の理由は、黒田の答えが石井の「『日本国』の『国家権力』を超歴史的存在としてうけとらせるおそれがある」という指摘に一切答えていないからである。石井の黒田批判の眼目は黒田が石井説を「統一的な国家を想定できるか」というよりは、むしろ「『日本国』の『国家権力』を超歴史的存在としてうけとらせるおそれがある」のではないか、というところにある。そして「中世国家の特殊性を、単に「国家権力」分有の様態のみに見出そうとするかぎり、それはいまだ真の特殊性・歴史性の把握とはいいえない」と批判するのである。それに対する回答として「具体的に「国家」があった事実をここで指摘したいのだというほかはない」というのでは、疑問に答えていない、と言われても仕方がないであろう。黒田は「『日本国』の『国家権力』を超歴史的存在としてうけとらせるおそれ」を引き受けた上で、その理由を提示し、その「おそれ」を現実のものとしないための議論を展開するべきだったのである。それがなされていない以上、黒田の議論に「『日本国』の『国家権力』を超歴史的存在としてうけとらせるおそれ」が潜むのは当然であろう。
黒田はなぜそのような危険を冒してまで「『国家』があった事実」にこだわるのだろう。皇国史観の「悪質な剽窃」だったからか。
一つ考えなければならないのは、黒田にとって歴史学とは何よりも社会科学の一部門としての「歴史科学」であったことである。「科学」である以上、そこでは対象の直接の現象的諸形態に関わる個別性・特殊性を捨象して、その背後の一般性を論理的に中傷抽象し、一般的な理論・法則として定立することが求められる。
とともに黒田にとって歴史学は「思想的な営み」(戦後中世史研究の思想と方法」『黒田俊雄著作集 第八巻』14ページ)でもある。黒田は次のように現代の思想的課題を述べる。

今日われわれ歴史研究者が当面している岐路=思想的課題は、日本人民がアメリカ帝国主義と独占資本による支配を排除して独立と民主・平和の課題を達成すべきだと考えるか、それとも「西欧なみの大国」への道をすすむげきだと考えるか、に最重要点があると思う。これは、歴史を探究しあるいは叙述するさいの態度としては、高度に発達した資本主義国であるとはいえ東アジアの一国としての歴史的規定性をその本質に色濃くもっていることに、細心に注意して、日本社会の今後のコースを新たに見定め、「後進国」諸国民との連帯をつよめるか、それとも、「西欧なみの大国」になりうるにいたった道筋を謳歌して「自由世界の一員」であることを誇るか、いずれかということになろう。(22ページ)

それに対して領主制論について次のように批判する。

領主制理論は、かつて提起された当時の細心な注意や豊かな思想的役割はほとんど忘れられて、単なる「段階規定」のための論議の形式的範疇に矮小化したかにみえる(20ページ)

また次のような辛辣な評価もする。

領主制理論は、いまや皮肉にも、かつての時期とは反対に、支配のイデオロギーの露払いさえしかねないかにみえる。(24ページ)

黒田は領主制論を批判しながら、次のように課題を設定する。「目標は、われわれ自身を世界史に位置付けることである」(25ページ)
私はこの領主制論に対する黒田の厳しい批判をみて、本郷和人氏の権門体制論に対する厳しい批判を想起せざるをえない。

研究を進めるたびに「克服すべき対象としての天皇」ではなく、「人々の上に格別な問題意識もなく鎮座まします天皇」が権門体制論によって守られている状態にぶつかり、打開策を講じなければならなくなります。唯物史観論者がどうして権門体制論なの?といわざるをえない状況が現出しているのです

黒田の言葉をもじれば「権門体制論は、いまや皮肉にも、かつての時期とは反対に、支配のイデオロギーの露払いさえしかねないかにみえる」ということになろうか。あるいは「権門体制論は、かつて提起された当時の細心な注意や豊かな思想的役割はほとんど忘れられて、単なる「段階規定」のための論議の形式的範疇に矮小化したかにみえる」ともいえようか。そしてこのような現状であればこそ本郷氏は「皇国史観の不備をしかと見定め、これと同じベクトルを有する権門体制論は、益より害が大きいのではないか」(『武力による政治の誕生』197ページ)「使えない理論はやめて、ほかの工夫したらどうか」と提起するのであろう。かつて石井が「万々考えられないかも知れぬ」と保留を付けながらも指摘した「危険」が現実のものとなっていることが指摘されている。
結果的にそのようになったとしても、黒田自身は「細心な注意や豊かな思想的役割」を持たせようとした。黒田が見定めていたのは「アメリカ帝国主義と独占資本による支配」であり、それを排除して「独立と民主・平和の課題を達成」を目指していたことが黒田の歴史学の体系を理解する鍵である。黒田が「国家論」というとき、それはあくまでも「近代国家」を直接正面に据え、その国家的支配としての一般性を追究するための「国家論」だったのである。
そのような黒田の歴史学に対して今谷明氏は黒田の政治性を「政治に奉仕する歴史学」と批判するが、細川涼一氏が指摘するように、「その議論の方法は、研究者に予め『党派』『党員』的なレッテル貼りをした上で、その研究が政治的立場に奉仕する目的でのみ成されたかのように議論する、それ自体極めてイデオロギッシュなものに思えてならない」。ネットスラングを使えば「妖怪どっちもどっち」「自称中立メソッド」と言われる態のものであろう。
ただ、黒田の「国家論」が、あくまでも近代における国家的支配を見据えて構築されていることが、石井の懸念する「危険」を胚胎することになり、それが帰結として「『人々の上に格別な問題意識もなく鎮座まします天皇』が権門体制論によって守られている状態」を現出するのであれば、その「国家論」自体に何かしらの欠陥が存在しているのである。
私はその欠陥を「国家論」の不在と考えた。本郷氏は「本当に国家と呼べる機構があったか、王は天皇でよいのか、という一歩踏み込んだ考察はされない」と批判した。私の考えはもちろん本郷氏の批判を下敷きとしている。
「国家」という言葉で何を措定するのか。そこが問われているわけで、黒田は「『日本国』全体をまとめた一個の国家」を「国家」と考えた。そしてその「日本国」を「封建王国」と捉えた。「国王を頂点とする政治的形成体であり、領域のなかの土地と人民を支配」し「当然国境をもつ」という「封建王国」の議論は、前近代の「国家」を考察する際に妥当なのか、「本当に国家と呼べる機構があったか」という疑問が常につきまとうのである。
もう一度石井と黒田の論争に着目したい。黒田が「『日本国』全体をまとめた一個の国家」の具体相として「貴族・武士を含めて全支配階級が農民その他全人民を支配した諸々の機構」に着目することに対して、石井は「特殊歴史的な所産である近代的『国家権力』観を前時代的にもちこみ」「中世国家の特殊性を、単に『国家権力』分有の様態のみに見出そうとする」と批判しているのである。この問答は、黒田が石井の指摘する「おそれ」「危険」について答えていないため、うまくかみ合わないままになっているのであるが、同時にこれは「『日本国』全体をまとめた一個の国家」という見方が「近代的『国家権力』観を前時代的にもちこ」んだ末にでき上がったものではないか、ということでもある。それは然り。黒田が「思想的な営み」と位置付ける自己の歴史学の特質にこだわる限り、「『日本国』全体をまとめた一個の国家」を措定するのは、ある意味当然のことなのである。しかしながら「貴族・武士を含めて全支配階級が農民その他全人民を支配した諸々の機構」を「一個の国家」と決めるのは正しいのであろうか、という疑問が出てくる。王朝を一つの地域国家、幕府を一つの地域国家とみなす見解も存在する。それを黒田は〈くに〉という概念で説明する。黒田は〈くに〉について増田四郎の議論を参考にしながら「それなりに独立の中世国家として、あるいは世界帝国または封建王国の下部に潜在する地域として存在したと考えられる」(「中世における地域と国家と国王」『黒田俊雄著作集 第一巻』、266ページ)としている。増田は「大小まちまちの政治的まとまりが、究極において中央の権威に服し、ついに一度もこの国の『不可分性』を破るにはいたらなかった」としており、その「不可分性」を黒田は「封建王国」に求めたのであろうが、この「不可分性」は「封建王国」つまり「貴族・武士を含めて全支配階級が農民その他全人民を支配した諸々の機構」に由来するものなのであろうか、という疑問が出てくるのである。何度も触れているように黒田が現実の「日本」を闘争の相手としながら、中世史家として考察する時、「近代的『国家権力』」の完成にいたる道筋を「中世国家」に見出すのは必然である。だから「近代的『国家権力』観を前近代にもちこ」むことが問題なのではない。問題は「中世国家の特殊性を、単に『国家権力』分有の様態のみに見出そうとする」ことにある。黒田は『国家権力』を超時代的なものとして把握する。しかし問題は「国家権力」の内実はどうだったのか、ということなのである。さらに言えば「貴族・武士を含めて全支配階級が農民その他全人民を支配した諸々の機構」が行使する「国家権力」は「『日本国』全体をまとめた一個の国家」の「国家権力」なのか。
この点に関して、私は現在適切な処方箋をもたない。参考として滝村隆一氏の議論を簡単に紹介することで責をふさぎたい。
「国家」には二つの側面がある。それは外的国家構成である〈共同体ー即ー国家〉であり、「広義の国家」ともいう。つまり「『日本国』全体をまとめた一個の国家」という場合の「日本国」というのは、〈共同体ー即ー国家〉に相当するだろう。「日本国」というのは、幻想の共同体として、人々の共同体の上にそびえ立つように存在している。もう一つは第三権力としての〈共同体ー内ー国家〉である。「国家権力」と言われるものである。「第三権力」とは、共同体が共同体内の二つの階級対立によって崩壊しないように、秩序の枠の中に保つべき権力のことをいう。エンゲルスのいう「社会からうまれながら、社会のうえに立ち、社会にたいしますます外的なものとなってゆくこの権力が、国家である」というときの「国家」は、この第三権力としての〈共同体ー内ー国家〉である。
(追記)
エンゲルスの第三権力論はあらゆる歴史的国家の本質に関わる根本発想であるが、近代国家とそれ以前とでは第三権力の形態が異なる。近代の第三権力は市民社会の様々な階級権力とは実体的にも独立しており、階級利害とは独立した形で存在している。これが完成した形態での〈共同体−内−第三権力〉である、これに対して古代や中世では〈共同体−内−第三権力〉は未発達で、都市共同体や農村共同体などの経済的利害を管理調整する公的機関や在地領主権力として存在する程度であり、むしろ最大かつ最強の都市共同体もしくは最大かつ最強の領主権力=国王権力として存立する。一つ一つの権門は〈共同体−内−第三権力〉のカテゴリーに属するだろうが、朝廷や幕府などはむしろ〈共同体−間−第三権力〉あるいは〈共同体−間−国家〉として定義づけることができるだろう。(参考:滝村隆一氏『アジア的国家と革命』)
「国家論に立脚した権門体制論の再生」ということを次のテーマにしていきたい。具体的に言えば、「権門体制」を厳密に措定し、従来の時代区分に囚われずに「権門体制」の時期区分を行い、硬直化した権門体制論を再構築してみたい、と考えている。
とりあえずの時期区分を示すと、
第一期:院政の開始から承久の乱前後
第二期:承久の乱前後から後光厳天皇の即位
第三期:後光厳天皇の即位から明応の政変
となる。中でも承久の乱を大きな画期としたい。承久の乱以前と以後とでは、武家権門の位置付けが大きく異なる。