「室町幕府はなかった」

1336年、足利直義らは建武式目を制定し、新たな武家政権の発足を宣言した。1338年には足利尊氏征夷大将軍に任ぜられた。尊氏は後醍醐天皇への対策から京都に武家政権を樹立する事が不可避であった。尊氏は二条万里小路に屋敷を構え、足利直義は三条坊門に屋敷を構えた。足利義詮は三条坊門万里小路に屋敷を構え、足利義満にいたってはじめて北小路室町に屋敷を構える事になる。後に義満は室町第を足利義持に譲って自らは北山殿を構え、そこを政庁とする。義持は父の死後三条坊門に屋敷を構え、足利義量は室町第に入るが、ほどなく死去する。足利義教足利義勝は室町第に、足利義政は当初は怨霊を恐れて養育されていた烏丸資任の高倉第にいたが、長ずるに従い、室町第に移り、晩年は東山殿で過ごした。義稙は三条坊門に始まり、放生津、一乗谷、山口と動き、京都に戻った後に堺から阿波国撫養で死去している。足利義澄は京都時代どこにいたかはしかとは分からないが、室町第も使われたようだ。後に近江国の朽木谷に移り、最後は蒲生郡で死去した。足利義晴は三条亭とあるから三条坊門第だったのだろうか。彼もしばしば近江に逃亡している。最期の地は近江国穴太である。足利義輝は亡命先の日吉神社で将軍に就任し、二条御所に移り、度々近江に行って、最期は二条であった。足利義栄阿波国平島で生まれ、摂津国富田で将軍に任ぜられ、足利義昭に敗れて逃亡、阿波国で死んだとも摂津国で死んだとも伝えられる。足利義昭は六条で将軍に任ぜられ、二条に移り、その後は備後国鞆で将軍として政務を執りつづけた。将軍辞任後は大坂で暮らした。
厳密な「定義」にこだわる人にすれば「室町幕府はなかった。京都幕府と呼ぶべきだ」という感想を持つかもしれない(多分いないと思う)。
一応「室町幕府」という定義について説明しておくと、義満以降の足利将軍家家督者を「室町殿」と呼称したわけだ。義持は「三条殿」と呼ばれる事もあったが、多くは「室町殿」で、義満の例を吉例とした義教以降は室町に居住しているか否かに関わらず「室町殿」と呼称された。義満が出発点と意識されていたのだろう。
気になるのは三条坊門第である。義持のいた場所として知られる三条坊門第だが、現在の柳馬場御池と想定される。御所八幡の付近である。その系譜をたどると足利義詮、さらにたどると足利直義となる。尊氏は政務を専ら直義に任せ、直義の失脚後は義詮を招き寄せて彼に政務を任せた。義持は直義・義詮の系譜に連なろうとしたのであろうか。
まさか「初代からずっと室町に政庁を構えていた幕府という意味での室町幕府はなかった、という意味だ」という言い逃れをかます人はいないだろう。