コネタ集

同情論証(ad misericordiam)

A「そんなふうに言うもんじゃない。B君がかわいそうだよ

Aの発言は、「XをYするのはかわいそう。故にXはYすべきではない」という形式の推論で、これは同情論証という。

要するに「B君がかわいそう」であることと「Yすべきではない」は関係ない、と。結構使われる、という気はする。取り敢えず自分の主張を通すために同情を引くような議論は詭弁だ、ということか。

対人論証(ad hominem abusive)

A「数学の知識なんて、社会に出ても役に立たないよ」
B「数学を目の敵にしている君がそんな事を言っても、説得力は無いな」

この場合、Bの発言が対人論証となる。「Aは数学嫌いである。故に数学の知識は社会で役に立つ」は演繹にならない為、論理として成立しない。仮に、BがAの結論を否定する以外の目的で発言したのなら、それは反論ではなく論点のすり替えとなる。

Aの言うこと、私は言いたい。しかし必ずBのような突っ込みを自分でしている。「オレがそんなことを言ってもな」と。しかしこれは詭弁なのだ。これからは胸を張って「数学の知識なんて、社会に出ても役に立たないよ」と言うことにしよう。
これは実際はAの言っていることもおかしいのだが、Bの反論が「対人論証」となっていて、反論になっていない、ということであり、Aの発言が正しい、ということを担保するものではないので念のため。「説得力はない」ことの論証にAという人間に付帯する属性は使えない、ということである。ということでいいのかな?

状況対人論証(circumstantial ad hominem)

A「そろそろ新しいデジカメが欲しいって話をC君としたら、D社の新製品を勧められたよ」
B「C君のお父さんはD社に勤めてるんだから、C君がそう答えるのは当然さ。真に受けない方がいい」

Aに対するBの発言は、特定の人間が置かれている『状況』を論拠としている。「D社に勤める家族を持つ者」は「D社に都合の良い嘘を述べる者」と論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、「C君のお父さんはD社に勤めている。故にD社のデジカメは買わない方がいい商品である」は演繹にならない。

このように、「その人がそんな事を言うのは、そういう状況に置かれているからに過ぎない(故に信用に値しない)」というタイプの対人論証を指して、「状況対人論証」と呼ぶ。

いやあ、自分の父親の勤め先の商品を勧めたいのは人情だな。ATMとか(笑)。信号機とか(笑)。あまり勧められるものではない。健康器具も作っているが、私の父は健康器具を目の敵にしていた。多分技術関係者の中でも路線の違いがあったのだろう。
それはともかく、置かれている状況は論拠とならない、ということだろう。実際には蓋然性は高いのだろうし、かなりこれは見られる「誤謬」ではないだろうか。ってか私は絶対にこの種の誤謬をやらかすぞ。「「D社に勤める家族を持つ者」は「D社に都合の良い嘘を述べる者」と論理的に同値でもなければ包含関係にもない」は分かるのだが、かと言ってそこに相関関係がない、とはなかなか理解しづらい。多分に相関関係と因果関係を取り違えるタイプの誤謬なのだろうか、と思ったり。「D社に勤める家族を持つ者」は「D社に都合の良い嘘を述べる者」は相関関係にあるかも知れないが、因果関係にはない、とか。帰納的に結論を出す時に相関関係と因果関係を取り違えてはいけない、というのは言われるし。でも違うような気もする。
「D社に勤める家族を持つ者」は、必ず「D社に都合の良い嘘を述べる者」とは言えないし、「D社に勤める家族を持つ者」の中に「D社に都合の良い嘘を述べる者」はいるだろうが、「D社に勤める家族を持たない者」でも「D社に都合の良い嘘を述べる者」もいるし、「D社に勤める家族を持つ者」でも「D社に都合の良い嘘を述べない者」もいる、ということでいいのか?ウィキペディアの記述よりも却って分かりにくくなった、に一〇〇〇点。