「アイヌ絵」を〈読む〉

我々が「アイヌ」で連想するのは、概ね「アイヌ絵」に描かれたイメージである。「アイヌ絵」とは18世紀から19世紀に和人によって描かれたものである。従って当該期の和人にステロタイプや表象が反映されていることに注意する必要がある(「http://www.ainu-museum.or.jp/nyumon/nm07_rks05.html」参考として佐々木利和氏の説明。この文章のネタ元でもある)。
ステロタイプとは『大辞林』には「ものの見方・態度や文章などが型にはまって固定的であること」とある。要するに固定観念・先入観で、「○○は××だ」という思い込みのことであろう。一例を挙げれば、昔私が宿直のバイトをしていた時に、食事をつくる担当の人が「関西人だったら薄味だね」と言って、実際に薄味の食事を作ったが、実際には私は濃い味付けが好みなのだ。もっとも関西が「薄味」と言っても、味が薄いわけではないのだが。
次に表象だが『大辞林』によると「感覚の複合体として心に思い浮かべられる外的対象の像。知覚内容・記憶像など心に生起するもの。直観的な点で概念や理念の非直観作用と異なる。心像。観念」ということである。これではよくわからないが、要するに表されたすがた、ということである。アスキー刊の『日本一短いオタクちゃんへの手紙』に描かれたオタクの表象は「自分の世界に閉じこもって白くてぷよぷよしていて話すときは人と目を合わさないくせに妙にお調子者で声が大きくって変なことにやたらくわしい」ということらしい。実際にはオタクといっても千差万別なのだが、「オタク」と言えば宅八郎よりはこういう「ぷよぷよ」しているというイメージが強い。私はこんな典型的なオタクは私以外には今のところお目にかかっていないのだが。
表徴とは表面に現れたしるし、そのものであることを示す外見的特徴である。デフォルメされた日本人を描く場合、眼鏡をかけ、カメラをぶら下げ、少しアゴがとがって目が細く、少し口がとがっている、という絵を描けば日本人らしく見える。この時の「眼鏡」とか「首からぶら下げたカメラ」とか「口」とか「目」とか「輪郭」が「表徴」である。
さらに「伝統」の虚構性にも注意する必要がある。大相撲で懸賞を受け取る朝青龍が左手で手刀をして受け取ることを問題視した内館牧子氏は「伝統に反する」と発言したが、北の湖理事長は「懸賞を土俵上で受けとること自体戦後のこと」とコメントしていたように記憶している。懸賞を右手で手刀をする、というのは「伝統」ではなく、内館氏が「伝統」と思い込んでいるだけなのだ(「http://members.ld.infoseek.co.jp/despapar/g035.shtml」参照)。あるいは「伝統」の始原を考える必要がある。古代から不変のものなど存在しない。常に新しく作り直され、あたかも古代から不変であるかのように喧伝され、不変であるがゆえに正統性を持つかのように思わされているのである。歴史学という学問は、事物の「歴史性」を問うものでなければならない。
アイヌ絵」を〈読む〉時にもステロタイプに基づく表象に注意を払う必要がある。「アイヌ絵」が表しているのは、当該期のアイヌの正確な姿ではなく、当該期の和人がアイヌに抱いていた固定観念なのだ。その固定観念にその人の政治的立場が加わってその人なりのアイヌの表象が出てくる。
まずは村上島之丞の『蝦夷島奇観』(「http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/mago.cgi?magoid=0D023440000000048」)をみてみよう。
この「アイヌ絵」を描いた村上島之丞は1799年に描いている。松前蝦夷地御用取扱としてアイヌ同化のために蝦夷地入りした近藤重蔵に従って蝦夷地入りした彼のアイヌに対する描き方は当然限定されてくる。それは同化・保護の対象としてアイヌを見ているのである。そこではアイヌの「自然と一体化した」表象や「未開性」が強調されることになる。
村上島之丞と全く逆のアイヌの表象を示すのが蠣崎波響の『夷酋列像』(「http://www.lib.hokudai.ac.jp/collection/hoppo/image/m_h_33.jpg」ちなみにこれはイコトイ像)である。蠣崎波響は松前藩江戸家老で、蝦夷地併合に抵抗し、蝦夷地幕領化以降は松前藩の復活に尽力した人物である。彼が描き出すアイヌの姿は異国性を強調するものとなっている。ツキノエ像(「http://takedanet.com/2007/12/post_6ed2.html」の左側、座っている方)やイコトイ像はロシアの軍服を羽織り、蝦夷錦を着用している。ロシアや清の影響もうかがわせるイコトイやツキノエの像だが、実際にはツキノエやイコトイを波響はみたことがない。ツキノエの妹でイコトイの母であったチキリアシカイは松前に行って松前道広以下松前藩の上層部と面会しているが、ツキノエとイコトイとションコの3人は現地に留まったままであった。しかもイコトイは当時70歳の高齢であったにも関わらず、あたかも壮年のように描かれている。『夷酋列像』がアイヌの正確な姿をとどめているわけがないのだ。『夷酋列像』は『新羅之記録』とは異なった背景下における政治的言説であった。アイヌをロシアや清をバックにした偉大なる異国人として描き出し、それを相手にし得る唯一の存在としての松前藩をアピールしようとしたのである。
アイヌ絵」を描き出す必要性というのは概ね以上の二つの類型になるだろう。つまり同化と保護の対象としてアイヌの「未開性」を強調するのか、偉大なる異国・異域の人としてアイヌの「夷風」を際立たせるのか。19世紀に蝦夷地が幕領化され、蝦夷地勤番制が成立した後にはアイヌは幕府の政策として同化と保護の対象となったため、「アイヌ絵」は基本的に同化と保護の対象として描かれることになった。
この時期の代表的なアイヌ絵の作者として平山屏山が挙げられよう。彼は移住先の函館で商人杉浦嘉七と知り合い、杉浦の請負場所である十勝などに滞在しその時に『蝦夷風俗十二ヶ月屏風』を作った。これは場所請負制下におけるアイヌの姿を描いたものではあろうが、特定の集落・特定の時期の実像ではない。様々な場面に様々なパーツを寄せ集めて構成されたものである。これを「写実的」「忠実」と考えることには慎重であらねばならない。
松浦武四郎も「アイヌ絵」を残している。彼が描いた『近世蝦夷人物誌』は場所請負制度におけるアイヌの惨状を告発したものである。ユーモラスな筆致でアイヌに対する共感に満ちているのが特徴であるが、同時にそれはこの時期の「アイヌ絵」に共通する特徴でもある。生き生きと躍動するアイヌの姿は武四郎のアイヌに対する共感を表すものではあれ、ここにおける姿がアイヌの全てではない。
19世紀末に描かれた富岡鉄斎の『アイヌ絵巻』は非常に楽しそうなアイヌの祭りの姿が描かれている(「http://www.museum.hakodate.hokkaido.jp/collection/bijutu/a_4_1.html」)。しかし鉄斎が北海道を旅したのは1874年、すでに鉄斎が頭に描いていたアイヌの姿は現実にはほとんどなかっただろう。武四郎と親交があり、鉄斎のアイヌ像もまた武四郎の影響を受けたものであろう。多分にユートピア化されたアイヌ世界とみるべきである。鉄斎はもともと仙境画を描いており、鉄斎のアイヌ絵もその一つのバリエーションとみることが出来よう。
アイヌ絵と言ってもバリエーションがあるのだが、一つ共通することがある。それはいずれもアイヌの描かれ方が画一的である点である。問題意識が異なるために描かれた姿も自然と一体化した「未開」の民とロシアや清と交流を持つ力強い集団というバリエーションがあるにも関わらず、彼らの顔つきは驚くほど似ている。例外なく髭を蓄え、蓬髪で一本まゆ、三白眼となっている。これは本当のアイヌの姿なのかを問う必要がある。
結論から言えば、これらはいずれもアイヌの〈他者〉である和人による〈他者〉アイヌの表象であって、そこには和人が〈他者〉アイヌに対して抱いているステロタイプが現れているのだ。和人がアイヌに対して抱くステロタイプとは「被髪左衽」である。この言葉は別にアイヌに対してのみ発せられる言葉ではない。三別抄がモンゴルのことをやはり「被髪左衽」と呼んでいる。中華思想に基づいて周辺の人間集団を蔑む際の常套句だったのだ。これを実際の風俗を表すものと考えるととんでもない過ちを犯すことになる。
「多毛」とい表象もしばしばアイヌに与えられる。知里真志保東京帝国大学在学中にかなり気にして「僕はそんなに毛深くないでしょう」と先輩に尋ねたりしていたらしいが、明治初期に北海道を旅し『日本奥地紀行』を著したイサベラ・バードは「肌のすべすべした日本人による誇張」と表現している。つまり日本人の体毛が薄いためにアイヌが濃く見える、という解釈である。
しかしこれも正しくない。アイヌ絵が描かれた時代の日本の風俗をみる必要がある。近世、特に享保期以降風俗統制が厳しくなる。土俵に女性を上げなくなるが厳密化されるのもどうも享保年間らしいが、このころの日本人の風俗は月代を剃り、まげを結い、髭を剃るという文化であった。つまり時代劇に出てくる典型的な古い人、というイメージである。彼らと比べると現在の我々はいかに「毛深い」ことか。現在でも髭は禁止という球団もあるが、江戸時代も髭と長髪は禁止だったのだ。髭は「野蛮」「アウトロー」の世界の風俗だったのである。
室町時代は逆に髭の文化である。足利将軍をみればわかるが、あごひげを蓄えるのが主流である。兜の緒を締める都合上、髭がないと困る、という事情もあったのだろうが、髭のない人は憶病者とみられる、というのが室町時代であった。髭がうすい人は付け髭をしていたのである。オランダ東インド会社のフリースはアイヌについて、彼らが月代を剃ってまげを結っていることを証言している。ただ徳川日本のように大きく剃らないだけで、頭頂部までは剃っていたのだ。これは典型的な室町時代の風俗と共通している。つまりアイヌの風俗は室町日本の影響があったのだ。それを江戸時代の「日本人」は「多毛」とか「野蛮」というレッテルを貼り付けたに過ぎない。
参考文献
佐々木利和『アイヌ絵誌の研究』(草風館)同『アイヌ文化誌ノート』(吉川弘文館)あたりを参照。