文永3年(1266)12月6日「六波羅御教書案」『東大寺文書』(『鎌遺』9605号)

最近歴史ファンが増えているという。ゲームから入って司馬遼太郎を読んで歴史にはまっていくのが多いようだが、そういう歴史マニアの方はこのブログには関わらない方がいいだろう。はっきり言ってつまらない。ただこのブログでやっていることが歴史学の基礎的作業である。このブログが「くだらない」と思える人は史学科はつらいかも、ということは言っておこう。私も学生のころには「下らね」と思っていた口だ。
歴史好きのグラビアアイドル、というのが今、「なるトモ!」で紹介されていた*1が、江戸時代の庶民の着物の柄とか庶民が何を食べていたのか、ということに興味があるようだ。着物の柄は知らないが、庶民の食べていたものは論じたことがある。江戸末期に急速に普及する蝦夷地産の新巻き鮭の普及の背景について、江戸幕府による蝦夷地直轄地化と商場知行制から蝦夷地勤番制ヘの展開を軸に蝦夷地における環境破壊の問題を論じた。何を食べていたのか、ということに背景にある様々な問題に論及することなしには歴史学としては成立しない。ただそのためには今やっているようなつまらない作業を続ける必要がある。
というわけで美濃国茜部荘の学生供料をめぐる東大寺と地頭代の争いを見ていこう。
前々回の史料に続いて幕府が地頭に出した文書。前回は地頭代の伊藤行村に出していたが、今回は地頭に出された六波羅御教書。

美濃国茜部庄雑掌申請所已下条々事、東大寺別当僧正御文(副具書)如此。早召上代官、不日可被明申也。仍執達如件
 文永三年十二月六日   散位
             左近将監 在御判
  地頭殿

地頭は長井泰茂。備後国守護の長井泰重との関係は不明。長井氏は大江広元の次男時広の子孫。時広は兄の親広が承久の乱で京方について失脚したために大江氏の惣領となった。広元の四男季光の子孫の毛利氏のもとで重臣となり、福原氏となる。福原忍投手と何らかの関係があるのだろうか。
読み下し

美濃国の茜部庄の雑掌が申す請所已下条々の事、東大寺別当僧正(聖基)の御文(具書を副える)此の如し。早く代官を召し上げ、不日明らめ申さるべき也。仍て執達件の如し
 文永三年十二月六日   散位(北条時輔
             左近将監(北条時茂) 在御判
  地頭殿(長井泰茂)

現代語訳

美濃国の茜部庄の雑掌が申す請所以下条々の事、東大寺別当僧正(聖基)の御文(具書を副える)にはこのようにある。早く代官を召し上げ、不日にはっきりさせるようになさるべきである。仍て執達件の如し

地頭代では埒が明かないとみた六波羅探題は地頭に働きかけているのである。地頭は茜部荘には赴任しておらず、地頭代を置いていたのであるが、東大寺別当からの申し入れとあっては六波羅探題としても放置できなかったのであろう。

*1:蜂須賀ゆきこさん。