弘長二年二月二十日「関東新制条々」

弘長元(1261)年二月に全61条に及ぶ「関東新制条々」という法令が出された。追加法で言えば337から397にあたる。実はこの二月二十日という日は改元初日であり、前日までは文応二年であった。この年は辛酉であり、辛酉の年には革命が起こると言われていたため、為政者はより一層「徳政」を敷かなくてはならない、という考えがあった。為政者が民の生活を顧みず、好き放題の行為に及べば、天は命を革め、他の為政者に天命を下す。天命を失った為政者は新たな為政者に取って代わられる、といういわゆる「易姓革命」思想である。特に庚申と辛酉の年には革命が起こりやすいと考えられていた。文応元年も庚申の年に当たっていたために正元から改元され、文応二年と二年続きで改元されているが、これは庚申と辛酉の年には革命が起こりやすく、それを避けるために「徳政」を行わなければならない、という発想に基づくものである。
改元といういわば象徴的な政策が行われることが多かったが、平安末期以降は「新制」と称してさまざまな政治改革が行なわれることが多かった。鎌倉幕府は庚申の年には六斎日・春秋の彼岸の時の殺生禁断令を発している。こうした一連の「徳政」の一環として61条の「関東新制条々」を出したのであろう。将軍は宗尊親王、執権は北条長時連署には北条政村が就任し、評定衆には北条朝直(大佛家)、北条時章(名越家)、北条実時(金沢家)、二階堂行方、安達泰盛引付頭人を兼ね、幕政の中枢を掌握していた。他には宇都宮泰綱、武藤景頼が関東御家人、法曹官僚の二階堂家からは行方の他には行義・行久・行泰が、他に問注所の三善家からは倫長・泰宗が、清原氏からは満定が評定衆となっている。
その時の『吾妻鏡』の読み下し。

修理替物用途並びに椀飯役の事百姓に宛て課す事、永くこれを停止す。地頭得分を以て沙汰を致すべきの由これを定めらる。

とある。他にも鶴岡八幡宮での法会の話もあるが、ここでは省略。『吾妻鏡』の記述からは、この法令の眼目がいわゆる「撫民」にあることがわかる。「撫民令」としての「関東新制条々」を読んでいきたい。