権門体制論理解のために

日本中世における国家体制を説明する概念として「権門体制論」というのがある。大阪大学教授であった黒田俊雄が1963年に「中世の国家と天皇」という論文で提唱した概念である。黒田は権門勢家という概念を用いて、中世における公家政権から武家政権への移行を説明した。黒田によれば公家・武家・そして寺社勢力は相互補完的に権力を行使した、と考えるのである。
これに対する議論はいろいろあるが、私はいずれも権門体制論の基本を外したうえで議論されている、と考えている。権門体制論は国家論であるが、それ以上に社会構成体史を前提としている。権門体制論を独立に取り上げても仕方がないのだ。
権門体制論に対する厳しい批判を近年活発に展開している本郷和人氏は『天皇の思想』(山川出版、2010年)の中で次のように述べる。

ぼくは言いたかった。あなた(「アカデミズムの総本家を自認する出版社の、ある高名な編集者」)が高く評価していると覚しきたとえば権門体制論は、理論としては華やかかもしれないが、一歩踏み込んだら何もなくなってしまいますよ。じっくりと実証作業を経て、内実を積み上げていく。それから論理を構築した方が、みのりある議論ができるじゃないですか、と。

ここでは理論と実証の関係について、まず実証を経てから、帰納法的に理論を構築することが主張されている、と考えられる。
桜井英治氏の次の言葉も同様に考えることができるだろう。

理論とは現象をうまく説明できてはじめて理論たりうるのであるから、それは本来現象そのものの観察から導かれるべきものである。別の場所から理論を借りてくる体質はそろそろ卒業してもよいころであろう。

この説明に対して東島誠氏は石母田正の次の言葉を引いている。

国家についてのなんらかの哲学的規定からではなく、経験科学的、歴史的分析から国家の属性や諸機能を総括しようとする立場に立つということは、この問題に無概念、無前提に接近するということではない。このようなことが可能だと思いこみ、それが通用しているのは、歴史家たちの住むせまい世界の特殊性のためである。

石母田の「国家についてのなんらかの哲学的規定からではなく、経験科学的、歴史的分析から国家の属性や諸機能を総括しようとする立場」というのは、桜井氏の「理論とは現象をうまく説明できてはじめて理論たりうるのであるから、それは本来現象そのものの観察から導かれるべきもの」あるいは本郷氏の「じっくりと実証作業を経て、内実を積み上げていく。それから論理を構築」と共通している。
しかし東島氏は石母田の「この問題に無概念、無前提に接近するということではない」という言葉に着目し、「実証史家といえども西欧近代知の枠組みのなかで思考しているのであり、『概念』や『前提』なしに経験科学的な分析が可能であるわけではない」と主張する。
権門体制論はどのように組み立てられているのであろうか。
権門体制論がいろいろな歴史的事実から帰納的に積み上げられた末に構築された理論ではないのは明らかだろう。だからこそ「一歩踏み込んだら何もなくなってしま」うのである。
権門体制論を理解する鍵は、マルクス主義にある。権門体制論を提唱した黒田俊雄が、マルクス主義者であり、また同時に敬けんな浄土真宗の信徒の家にうまれたことは、黒田俊雄を理解するうえで欠かすことのできない要素である。
黒田自身は歴史における実証と理論の関係をどのように考えていたのか。

歴史学は、歴史の流れや個々の史実を、事物の総体のなかでの生成・発展としてとらえる科学である。歴史的展開の一側面や個々の史実を、全体から切りはなして、ただ事実を事実としてもてあそぶのは、歴史的な理解とはいえない。(「時代区分と文化の特質」『黒田俊雄著作集 第7巻』329ページ)

黒田にとっての「事物の総体」とは何だったのか。それはマルクス主義であった、と私は考えている。
権門体制論、顕密体制論、荘園制論を理解するためには、マルクスの『経済学批判』の「序言」の次の記述が参考になる。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。

社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。

このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。

一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。

大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。

「生産諸関係の総体」によって形づくられる「社会の経済的機構」が「荘園制」であり、その上にそびえ立つ「法律的、政治的上部構造」が「権門体制」なのだ。そして「現実の土台」に対応した「一定の社会的意識諸形態」が「顕密体制」なのである。
「荘園制」をどのように捉えるのかが従って問題である。荘園制とは古代的なものなのか、それとも中世的なものなのか。黒田以前には古代天皇デスポティズムを支える「土台」であると考えられ、その段階での支配階級は荘園領主だったと考えられた。そして在地領主を組織して古代天皇デスポティズムを打倒したのが源頼朝率いる在地領主であり、その樹立した国家が鎌倉幕府だったのである。したがってここでは階級闘争は古代天皇デスポティズムそのものである荘園領主と、封建制そのものである在地領主との間で戦われる。そして古代天皇デスポティズム下における社会的意識諸形態が顕密仏教であり、それは在地領主制下における社会的意識諸形態である鎌倉新仏教によって克服されていくと考えられていた。
黒田はそれに対して荘園制こそ中世における社会の経済的機構である、と考えた。そこにおいては「百姓」と「領主」との階級闘争が戦われている。要するに武家政権と公家政権の対立は、巨視的に見れば「コップの中の嵐」でしかないのだ。そこを考察すること自体は問題がないが、そこの支配階級内部の対立点を強調することによって権門体制論を批判するのは、黒田からすれば「歴史的展開の一側面や個々の史実を、全体から切りはなして、ただ事実を事実としてもてあそぶ」ことであったろう。
国家とは何か、と言えば「組織された暴力」つまり「暴力機構」である。これが大前提であって、それに加えてイデオロギー装置と行政機構が機能している。「暴力」というのは後に「強力」という訳語に置き換えられるが、Gewaltの訳語であることは論を俟たない。「強制装置」ということになるだろうか。あるいは「組織された武力」という言い方ならば中世史研究者にも分かりやすいかもしれない。
権門体制は「強力装置」と「イデオロギー装置」と「行政機構」を持ち合わせた国家である。鎌倉時代で言えば、幕府が一貫して「強力装置」として機能し続けた。朝廷が「行政機構」で、寺社勢力が「イデオロギー装置」である。それの中でも対立点は当然存在している。権門体制論はその対立を無視してはいない。しかしその相互の対立、例えば幕府が朝廷の皇位に介入し、朝廷の武力を剥奪し、朝廷を武力による威嚇で思う通りにしても、それは根本的な階級対立ではない。それはいわば「人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態」のレベルでの対立であって、「経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革」と常に区別されなければならないのである。
従って権門体制は荘園の消滅を以て初めて消滅するわけで、武家が圧倒的な力を持って他の権門を圧倒しようとも、荘園を否定しない限りは権門体制は続くのである。
国家とはスタティック(静態的)なものではなく、ダイナミック(動態的)なものであるから、国家のダイナミズム(動態)を叙述できなければ国家論として成立しない。黒田は権門体制の段階を次のように分類する。
第一段階は院政である。院政は決定的な段階を画する、と黒田は評価する。上皇の政権掌握は、権門としての恣意的なものであって、令制の原則に照らして完全に法外であると指摘し、完全な意味での権門政治の最初の形態であると評価している。
第二段階は鎌倉幕府の成立である。幕府は階級的性格において公家・寺家の権門と異なるものをもち、幕府だけで独自に国家権力機構を形成する可能性をはらんでいた、としている。黒田は「従来の幕府についてのほとんどの研究は、幕府が独自に国家機構をなしたものときめたうえでこの後段の点だけに研究を集中し」ているが、「幕府の独自国家への可能性はついに可能性たるにとどまり、実現することはなかった」と説明している。幕府と朝廷の関係については黒田は次のようにまとめている。

権門体制の成立によって律令貴族が安易に封建貴族に移行したのではない。かれらは、一面たしかに「古代的」ともいうべき権威によって中世的権門へ移行することができたが、そのためには、多数の古代貴族の没落のほかに、領主制の成立・武家権門の成立という高価な代償を支払い、しかも、やがては幕府に権門政治の主導権を引き渡す道を開かざるをえなかったのであって、権門体制はけっして古代的支配の存続を意味するものではなかったのである。

このダイナミックな記述こそ、権門体制論の一つの特質であって、天皇武家と寺家が単に相互補完的に存立していた、という皇国史観とは似て非なるものである。これを混同する近年の今谷明氏の見解はおそらくは黒田を貶めようとする故意の誤読であると私はみている。もしくは黒田の説が弁証法唯物論、つまり史的唯物論の立場に立っていることを理解しておらず、またそもそも弁証法と機械論との違いを理解していないが故の誤読であるように思われる。今谷氏は黒田氏をはじめとする関西の史的唯物論の立場に立つ研究者に対してすさまじいまでの敵意を隠そうともしていないし、特に近年はその傾向を強めているように思う。私は近年の今谷氏の史学史の把握を評価する着にはなれない。
権門体制論が、具体的な観察から導かれた理論ではなく、むしろ経験科学的な分析を可能たらしめる「概念」であり、「前提」なのである。従って細かな史実を積み重ねても、それは権門体制論への批判にはならない。むしろ権門体制論を補強する実証作業でしかない。
例えば幕府が武力で朝廷を圧倒し、武力を剥奪してために朝廷は武力を発動するために幕府に頼み込まなければならなくなった。黒田に言わせればそれこそ「相互補完」である。武力を持つ幕府が朝廷を補完するのだ。主観的にはいろいろ考えられているだろう。マルクスの言葉を借りれば「イデオロギーの形態」においては、朝廷内部では武家に対する反発と諦めがあったかもしれない。武家は機会を捉えて朝廷を圧倒しようとしているかもしれない。そこの寺家を加えるならば、内部ではそれぞれ様々な思惑があり、必ずしも主観的には一枚岩ではそもそもあり得ない。相互に対立し、その動きのなかで段階的に発展していく、つまり弁証法的に展開していくのである。
黒田は従来後醍醐による古代への回帰を目指した反動でると評価されてきた建武政権については、むしろ権門体制の否定であり、封建王制樹立への試みであったとしている。しかし後醍醐の階級的立場からくる反動性は、後醍醐をして広範な在地領主層の利害を代表して権力機構を再編成するためではなく、一部の公家勢力の回復のために王権の強化を思考した。そのために泡沫のごとく消散したのである。
室町時代には武家が他の権門を圧倒するにも関わらず、権門としての性格を有すると規定する。しかし幕府以外の権門は天皇も含めて政治的に権門たるの実を失う。しかし公家・寺社は儀礼有職故実の学に権門としての存在意義を有していた、とする。園意味で権門体制を克服しきらなかったとする。そして応仁の乱によって権門体制は崩壊するのである。天皇も将軍も公家も存続するが、支配すべき国家も国政ももはや存在しなかった。織豊政権江戸幕府は強固な封建王制として存在し、そこに中世的な鎌倉幕府室町幕府との違いがある。