仮名書きの御内書2

「見たことがない」と「ない」とは違う。そこでとりあえず多くの御内書を集めた史料集を見てみることにする。
『改定史籍集攬』に「室町家御内書案」という史料がある。とりあえず御内書がたくさんあるのだが、そこに収載されている御内書における仮名書きの比率をみておきたい。
室町家御内書案」は御内書をいくつかグループ化している。
一 御内書之御案文 貞宗御調進
このグループには九十五通の御内書がある。「貞宗」は伊勢貞宗(1444〜1509)。御内書は基本的に年号を書かない(だから年号の書いてある琉球世の主宛の文書を御内書に准ずると称するのはその点でも問題がある、と考える)。ただ年号の分かる文書がいくつかあって、付年号(年号を小さく追筆する)に文亀二年(1502年)、永正元年(1504年)、永正二年(1505年)、永正三年(1506年)、永正四年(1507年)、永正五年(1508年)、永正十二(1515年)、永正十三年(1516年)、永正十四年(1517年)、永正十五年(1518年)、永正十六年(1519年)という年号から、当時の室町殿は足利義澄足利義稙であることが分かる。永正五年に足利義澄が京都から没落、足利義稙が将軍に再任される。永正五年で一時御内書が欠落するのは伊勢貞宗が引退したからだろう。貞宗の子で政所執事の伊勢貞陸(1463〜1521)や同族の伊勢貞泰の名前も見られる。このころの室町殿は足利義稙である。
足利義澄足利義稙の代に出されている九十五通の御内書には仮名書きの御内書は見出せない。
二 御内書 大永享禄天文中
このグループには五十九通の御内書を含む。「大永・享禄・天文」年間、つまり1521年〜1555年の間の御内書である。この時代の室町殿は足利義晴足利義輝だが、おそらく足利義晴の発給した御内書であろう。このグループには六通の仮名書きの御内書が存在する。一通は「あか松うはの局」つまり洞松院(赤松政則室、細川勝元女)宛。二通目は「伊勢守」つまり伊勢貞忠宛、三通目は「畠山左衛門」つまり畠山稙長宛。四通目は「右京大夫入道」つまり細川高国宛。五通目は「りうきう国のよのぬし」つまり尚真宛。六通目は「あか松うはの局」宛。この六通は大永六年(1526年)十二月から大永七年(1527年)の七月にかけての文書で、大永七年二月には義晴・高国は足利義維を擁する細川晴元桂川で戦い、敗北の末に近江に没落している。
それではその六通の御内書の文言を見てみよう。
1 洞松院宛足利義晴御内書

こんとそうけきにつきて二郎(赤松晴政)のほりてちうせつ候はゝ、しんへうのよし申くたし候。さうさう上らく候やうにいけんをくハへられ候へき事よろこひ入候。かしく
  あか松うはの局へ
  あか松こうしつの局へ(赤松政則娘)

細川高国細川晴元の内紛に端を発した戦乱に赤松晴政が参加したことについての義晴の御内書。あか松うはの局は晴政の祖母、あか松こうしつの局は晴政の母。

2 伊勢貞忠宛足利義晴御内書

今度朝倉弾正左衛門尉事このみきり致忠節物、可為神妙候。しからは供衆にめしくハふへく候。いかゝ存候哉。かしく
  三月廿三日
    伊勢守殿

浅倉孝景(朝倉義景

の父)が朝倉宗滴

を上洛させたことに関して、朝倉氏を御供衆にすべきかどうかを伊勢貞忠に尋ねた御内書。室町殿の女房衆から政所執事への連絡事項だったのであり、あまり表に出てくるようなものではない。

3 畠山稙家宛足利義晴御内書

今度種々馳走よろこひ入候、仍太刀一振〈国綱〉刀一腰〈左文字〉つかハし候。猶尹賢(細川尹賢、高国の従兄弟)可申候也
  六月二日
    畠山左衛門佐殿

畠山種家(推定)に対する御内書。

4 細川高国足利義晴御内書

当国南北和与之事、馳走之由、可然候。さりなから無一途之間急度罷こし被調候者、尤神妙よろこひ入へく候なり
  七月十三日 御判在之
    右京大夫入道殿

高国に対して「南北和与」の功績に対して下された御内書。「南北和与」は何か知らないが、「当国」とあることをみると、近江国の問題で、高国と協力関係にあった六角定頼が浅井久政

を従属させたことを指しているか。

5 尚真宛足利義晴「御内書」

御ふみくハしく見申候。進上の物ともたしかにうけとり候ぬ。又この国と東羅国とわよの事申とゝのへられ候。めてたく候
  大永七年七月廿四日 御判在之
    りうきう国のよのぬしへ

尚真王に対する「御内書」。カギカッコを付けたのは、私はこれを御内書とは見ていないから。しかし「御内書」として「御内書案」に入れられた為に、今日「御内書」として扱われる。しかしこれを「御内書」に分類するのは、当時の日琉関係を見誤らせ、ひいては当時の室町殿権力のあり方の把握を不正確にする。
「東羅国」は1525年に行われた与那国島の征服を指しているか、と思っていたが、これは「柬羅国」=明のことで、寧波の乱の後始末。

6 洞松院宛足利義晴御内書

あふみくつ木にとうりう候。この時へつしてちうせつ候ハゝかんように候。そのためにもと通をさしくたし候。又東さいの事もさうさうわよいたし候やうにけちせられ候へく候。よろつあかるへきやうにいけんをくハへられ候はゝよろこひ入候へく候。なを御さこの局申され候へく候かしく
  十二月廿三日 御判在之
   あか松うはの局へ

朽木谷に移動したことを知らせる御内書。
以上が現在私が確認している仮名書きの御内書である。5を除いて共通点がある。それは「飯宮調之」と注が付けられていることである。そしてその書き方から判断すると「飯宮」は女房なのであろう。2はむしろ「飯宮」のメモのようなものと考えるべきだろう。3と4は室町幕府桂川の戦いによって崩壊し、伊勢貞忠と「飯宮」が御内書の実務を行わなければならない事態になったのであろう。
そう考えてくると、仮名書きの御内書は非常に限られた存在であることが分かる。
追記
数年前にコピーしていた『続群書類従』664、665に「御内書案」と「御内書引付」があり、「御内書案」は「室町家御内書案」の一部が違うもので、「御内書引付」はまた違う御内書が収められている。
「御内書案」には仮名書きの御内書は一つもなく、「御内書引付」には尚巴志足利義教「御内書」が収められている。
これらの史料は伊勢氏が集めたようで、琉球国王宛の文書を「御内書」と分類したのは伊勢氏であることがうかがえる。ただ足利義持足利義教のころにそれが「御内書」と意識されていたかは別問題で、義持・義教の時代に上意下達形式が選び取られたことは事実だが、「御内書」という上意下達形式の文書に類似した形式が選び取られたことと、それが国内問題として処理していたかは別問題であろう。