2012-01-01から1年間の記事一覧

「琉球奉行」の事例

琉球使節の来日に関する室町幕府の記録。 琉球人参洛、当御代六ヶ度目、号長史。於御寝殿庭前三人懸御目、三拝申了ー庭鋪席。 一、女中衆御見物 一、御供東之御祗候 一、走衆六人、上土門南候了 一、進物料足一千貫、其外如先々 一、懸御目三人進物種々、自…

これはひどいウィキペディア「室町時代」

今回取り上げるのは「室町時代」の項目。今回は琉球との関係を取り上げたい。問題の箇所はここ。 1414年には将軍足利義持が琉球王の献上物に対する返礼の書状を贈っており、1441年には足利義教が琉球を薩摩国の島津氏の属国とする事を認めており、さらに幕府…

無題

一時間かけて書いた琉球宛の足利義教御内書に関する考察が消えた。とりあえず要点だけ。「御内書引付」にあるから御内書、という思考停止をやめよう、ということ。これを御内書に分類した時期の室町幕府自体が琉球との交渉を行わなくなって久しく、参考とし…

一色藤長宛徳川家康書状

天正三年、足利義昭は徳川家康のところに行こうとしたらしい。 内々御床敷之処、酒井左衛門尉、石河伯耆守かたへ之音簡即遂被見候。然者無何事其国御滞在之由候。万々令察候。兼又不図此方へ可有御越之由候。何篇不可有無沙汰候間、必待入候。尚具両人可申候…

足利義教御内書と畠山満家書状

御内書には大名の添状がもれなく、なのかどうかは知らないが、ついてくるものだ。『上杉家文書』に収載の足利義教御内書を見てみる。 1 長尾上野入道無二心中候之由、連々聞及候。尤神妙、向後彌致忠節候様、尚々可被申付候。殊更太刀一腰遣之候。可被伝候也…

足利義昭御内書の解釈

せっかく国家鮟鱇氏が解釈を提示してくださっているのだが、私の解釈とはいささかことなるので、解釈を提示してみる。 就近般信長恣儀相積、不慮城郭取退候。然此節甲州令和談、天下静謐馳走頼入候。為其差越一色中務大輔。猶藤長可申候也。 三月廿日 御判 …

痛風

水曜日、朝起きたら足首が痛かった。高校二年生のときに足首捻挫で少し曲がってしまっているのでそれか、と思ったが、考えれば寝ている時にそこまでひどくひねることはないだろうと思った。 木曜日には旅行にいったのだが、痛くて痛くて旅行を楽しむどころで…

面白い史料

こんな史料を見つけた。 就近般信長恣儀相積、不慮城郭取退候。然此節甲州令和談、天下静謐馳走頼入候。為其差越一色中務大輔。猶藤長可申可申候也。 三月廿日 御判 徳川三河守どのへ 織田信長と対立していた足利義昭が、武田信玄と和睦して織田信長と戦うよ…

昔話

Mac

今は昔、モバイルギアというのがあってだな、持ち運ぶの同時に筋トレをしていた人々にとっての福音となるかと思われたのであった。尤も私はMS-DOSを使えない負け組だったので、モバイルギアの第一世代とは無関係であった。GUIでなければコンピュータを使えな…

仮名書きの御内書2

「見たことがない」と「ない」とは違う。そこでとりあえず多くの御内書を集めた史料集を見てみることにする。 『改定史籍集攬』に「室町家御内書案」という史料がある。とりあえず御内書がたくさんあるのだが、そこに収載されている御内書における仮名書きの…

スマホ

一週間前にスマホにした。もちろんiPhone。もちろんソフトバンク。車はオリックス自動車でマツダだから、ドコモ携帯を使っていたこと自体がおかしかった。 ワープロが使えるのが便利。どこでも思いついたことをいろいろ書ける。あと便利なのは、調べたい史料…

仮名書きの御内書

私一人が「仮名書きの御内書はみたことはない」と力説したところで、「お前が見たことないだけだろ」と言われて終わりなので、優秀な若手研究者に聞いて見た。二人とも「ない」とのことであった。これで仮名書きの御内書はない蓋然性が高い。

「王女の男」をアジア史的パースペクティブに位置付ける3

「王女の男」、考えれば今日第1話なんだな。多分見ない。 その背景となっている「癸酉靖難」。1453年に前国王文宗の弟のスヤン・テグン(首陽大君)が甥の現国王端宗を廃して自ら王位に上った事件なのだが、そのころ一斉に周辺諸国で政変が起こっている…

素朴な疑問

故あって琉球の歴史を見ているのだが、不可解な記述がある。 室町殿から琉球国王への書状だが、御内書に準じた仮名書きの書状で、守護大名と同じ扱いで、同種同文意識が働いている、という話。 私は仮名書きの室町幕府の公文書など見たことがない。室町殿が…

「王女の男」をアジア史的パースペクティブに位置付ける2

「王女の男」は1453年の朝鮮王朝の政変を部隊にしたドラマだが、悪役のスヤンとシンスクチュには彼らなりの事情があったことを述べたが、日本・明・朝鮮だけではなかった。1453年には琉球でも志魯・布里の乱が起こり、首里城が炎上、その五年後には…

ワイルドだろぉ?

私の義父の話。 以下スギちゃんふうに。 キヨちゃん(仮名)さぁ、虫よけ切らしていたんだぜぇ。だからキンチョールを振りかけて作業をしたぜぇ。ワイルドだろぉ?

歳食ったなぁ

先日参加している研究会で、研究者を紹介された。PD(ポスドク=博士課程を出てポスト待ちの若手研究者)だという。「○○大学の△△です」と自己紹介があったので、こちらも「□□です」と言おうと思ったら、「□□先生には一回生のときにお世話になりまして、今…

「王女の男」をアジア史のパースペクティブに位置づけてみる

今みたい韓流ドラマ「王女の男」(多分見ない)。その舞台は「癸酉靖難」。1453年に朝鮮王朝で起きた王位簒奪事件である。 朝鮮王朝の最盛期を作り上げた世宗大王を継承したのが文宗だが、彼は病弱だった。彼が36歳で死去すると、王位は世嗣で11歳の弘暐…

ショックだったこと

教え子が大学教員になっていたこと。16年も教えていりゃそういうこともあるか。 相変わらず書くに耐えない調子。

韓流

「王女の男」(http://www9.nhk.or.jp/kaigai/oujo/chara/index.html)見てぇw 韓流、基本的には関心ないが、このドラマの登場人物の首陽大君やシン・シュクチュ、多分「平清盛」の登場人物よりも詳しく知っているかも。 「朝廷の重臣、シンミョン(主人公の…

詫び草

詫び草はコリ水槽に投入。45cmキューブに入れてもかなりボリュームあり。これが15cmキューブに入っていた、というのがある意味すごいw

詫び草水槽

最後のカージナルテトラが☆になった。

斯波義淳の政治的位置づけ

河村昭一氏「管領斯波義淳の政治活動」(『政治経済史学』417・418号、2001年)と吉田賢司氏『室町幕府軍制の構造と展開』(吉川弘文館、2010年)を読んだ。 斯波義淳に関する問題をクリアしなければ、下国康季の十三湊没落と室町幕府の関わり…

近況

ゴールデンウィークは一日しか休みがなかった。ゴールデンウィークに休みが多いというのは、経済的に痛いので、よかった。刷り上がった論文抜き刷りを謹呈しなければならないのだが、面倒で多忙でまだ送っていない。今のところ、一人にしか謹呈していない。…

近況

昨年四月に提出した原稿がようやく公刊。シンポジウムの報告集も出たので、今年は久しぶりに研究成果が出たのはよろこばしい。 戦国IXAは新章スタート。足利義昭復活。 咳が半年近く収まらない。医者に行ったところ、気管支の腫れや喘息ではない、ということ…

「元寇」はなかった?

まずは「順性御物以下注進状案」(『青方文書』所収、出典は『松浦党関係史料集 第一』二〇二号文書)より。永仁六年(一二九八年)の話。 葛西殿御分 注進 御物以下雑物等事 一 さきん*1弐百四十両、四もんめ 一 まとめかね六十切 一 ほそきぬの事 二十ひろ…

『応永の外寇の探究』

ここでは中立の立場から歴史を検証する。ここで依拠したのは日本人の証言である。朝鮮王朝の証言は採用しなかった。朝鮮王朝の調査によってもたらされた証拠も採用しなかった。 もしこれらを採用したなら、朝鮮王朝の立場を擁護する政治的偏向の書であるとの…

パソコンクラッシャー

油断していたら娘(一歳)に「H」のキートップを外されてしまった。「H」がうまく打てない。これも一生懸命押して出している状態。長い文章を入力するのはかなりいらいらする。

「室町幕府の実在を実証せよ」

いや、ほとんど不可能だろう。不可能な理由はまた。しかし「H」が上手く打てないのでいらいらする。

「室町幕府はなかった」

1336年、足利直義らは建武式目を制定し、新たな武家政権の発足を宣言した。1338年には足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられた。尊氏は後醍醐天皇への対策から京都に武家政権を樹立する事が不可避であった。尊氏は二条万里小路に屋敷を構え、足利直義は三…