2010-01-01から1年間の記事一覧
実は菅大臣神社に関する史料を使ったコネタを用意していたのだが、肝心の菅大臣が9月までもつかなぁ。代表選まではもつだろうと高をくくっていたのだが、これではいつつぶれても不思議ではないなぁ。菅大臣神社に関するネタを書けるようになるまで(要する…
今日は少しgdgdになってしまった。原因は抵当権と質券の説明で、文書の中の担保が抵当権なのに質権と考えてしまったこと。「向後亀鏡の為」ここに残しておく。 申うくる利銭事 合一貫文者 右、用途者、百文ニ五文つゝの利分をそへて 来十月中ニけたいな…
講師控室で先生方(面識はない)が世間話。ネットのデマをマジに受け止めていろいろ差別的な発言をしている。「ネットの中に真実がある」と信じる段階で人文科学研究者としての資質に疑問符が付くだろうし、差別的な言辞をもてあそぶ段階で教育者として失格…
(注意:この物語はあくまでもフィクションです) 承久元年12月29日の鎌倉幕府 義時「今回(伊賀)光季を通じてこんなもんがうっとこに来たんだけど、お前ら、ちゃんと彗星みてた?」 と安倍資元の勘文を見せた。 司天A「何々?20日に彗星が見えたっ…
承久元(1219)年7月13日に後鳥羽の命令によって討ち取られた源頼茂であるが、頼茂の誅殺に関して幕府が何らアクションを起こした形跡はない。それどころか伊賀光季によれば、「たまたま若君(藤原頼経)が下向されたので、今まで事情を申しませんで…
承久の乱によって鎌倉幕府の朝廷に対する優位が決定した。幕府は天皇をその位から引きずり下ろし、乱の首謀者となった治天の君を流罪にした。そして次の天皇は後鳥羽の子孫ではなく、後鳥羽の兄の行助入道親王の子孫から出すことにした。天皇の人事権は治天…
結果だけを見ると非常にいい試合。そのことに全く異論はない。 下柳剛投手の好投。青木宣親中堅手の先頭打者本塁打と相川亮二捕手の本塁打の二点に抑え、関本賢太郎選手の代打勝ち越し本塁打で勝利。渡辺亮投手、久保田智之投手、藤川球児投手と無失点救援。…
北条義時黒幕説に対する反対意見として、義時が黒幕ならば、自身の関与を疑わせるような記録を残すわけがない、というのがある。その通りである。この件に関する公的な記録とは『吾妻鏡』のことであるが、『吾妻鏡』には義時を黒幕とうかがわせる記述はどこ…
源実朝が必ずしも北条氏の傀儡でないことは、現在ではほぼ学界では定説となっているとみていいだろう。『現代語訳 吾妻鏡 8 承久の乱』では杉山巖氏が解説を書いていて、そこの「実朝の治世」では「実朝の治世にあたる建保年間は幕府の基盤がよく整えられた…
1219(建保7、この年4月に承久に改元)年、右大臣拝賀の式に臨んだ鎌倉幕府三代目将軍源実朝は、参拝を終えて石段を降りたところで甥(二代目将軍源頼家の子)の公暁に暗殺された。その時に太刀持ちをしていた大学頭・文章博士の源仲章も殺された。仲…
中世史研究者の戸田芳実がこんなことを書いていた。 この草創期・開拓期の達成した古代−中世移行論の研究水準を自分たちのものにするためには、何をおいても前期四人の著作、すなわち石母田正『中世的世界の形成』、藤間生大『日本庄園史』、松本新八郎『中…
打たない。というかつながらない。まあ昨日あれだけ打てば打ち疲れというやつか。昨日打った分の二点でもこちらに回せばいいのに、という無茶なことを考えてしまった。 下柳剛投手の好投。チェン投手も好投して投手戦、阪神の方が安打数も多いし、荒木雅博遊…
平清盛の樹立した政権を「六波羅幕府」あるいは「福原幕府」と呼ぶべき、という見解は実はなかなかハードルが高い。なぜならば、そもそも「幕府」という概念は、源頼朝にあって平清盛にないものを表象するために作られた概念だからである。 鎌倉幕府成立年代…
保元・平治の乱を勝ち抜いて朝廷の主導権を掌握した平清盛は、平治の乱のきっかけになり、また平治の乱後も続く後白河上皇と二条天皇の争いに中立的な立場をとりつづけた。平清盛の義妹の滋子が後白河との間に生んだ憲仁親王を皇位に就けようという滋子の兄…
軍事貴族のプレゼンスが向上するのは、この二つの戦乱である。これを通じて軍事貴族は中央政界における存在感を強めて行く。 藤原忠実の娘の泰子の入内をめぐって白河法皇と鳥羽天皇の関係が疎遠となる。一旦は白河主導で泰子を鳥羽天皇のもとに入内させよう…
朝廷は長い間常備軍を持たなかった、と言われる。朝廷の常備軍に替わって朝廷という〈共同体ー間ー第三権力〉の強力機構として機能したのが武士団である。武士とはどうやって発生したのだろうか。地方の乱れに対応して大名田堵などの有力農民が武装して在地…
院政を始めたのは白河上皇である。白河上皇は子どもに譲位した後、自由な立場から院政を行った。 これがよくなされる説明である。しかし実際にはそれほど単純に院政が成立したわけではない。白河天皇が自分の皇子善仁(たるひと)親王に譲位したその背景には…
石井進がその著書『日本中世国家史』の序章の「付、日本中世国家論の諸問題」において次のように黒田俊雄の権門体制論を批判している。 黒田氏の論文の冒頭の一節にこだわりすぎるようであるが、「古来島国として独自に存続してきた」「日本国」、という常識…
テレビ番組を見ていると本村健太郎弁護士が出て来て、法律知識について話していた。その中でなるほどと思ったこと。 痴漢冤罪で自分がやっていないのであれば、駅長室に同行してはダメ、ということらしい。駅長室に行くと、まず警察に突き出され、警察では拘…
今度はペルーボンディが☆に。プンクとエクエスはまあ五年以上いるわけだし、見るからに年取ったな、という感じもしていたが、今回のペルーボンディは2007年10月10日にわが家に来ている。3年弱。特にエロモナスなどの病変があったわけではない。何よ…
権門体制論には国家論がない、と言えば、意外な感じもするだろうが、私は権門体制論の問題点として国家論の不在を主張している。権門体制論を読んでいて感じるのは、「国家とは何か」という国家論がない。「日本の中世国家はどんなものか」という議論に終始…
古株のスーパーエクエスが☆に。 2004年の10月だからかなり古株。現在一番古株は9月に来たポリスティクタス。それに次ぐ。最近はかなりよれよれで、白内障を患っていたようで、おそらく目が見えていないだろう、と感じることが多々あった。それでも餌…
権門体制論それ自体は天皇を【国王】とすることは必ずしも前提としない。だからこそ権門体制論の枠内で天皇ではなく治天を【国王】とする議論も可能なのである。しかし黒田俊雄は断固として天皇を日本中世国家の【国王】とすることを譲らない。 これについて…
黒田俊雄は権門体制論に対する批判として出された東西国家論に対する反論として書かれた1986年の論文「中世における地域と国家と国王」で、増田四郎『社会史への道』に依拠しながら、「中世の国家」を「世界帝国」「封建王国」「くに」に分類したうえで…
☆になっていた。そろそろ多くのコリが5年目に入っていて、少しずつ減っていくのだろうか。
もう一つの問題点、つまり権門体制論自体が孕む問題点であるが、これは私の手に余る問題で、黒田俊雄の研究が権門体制論の他に荘園制論・顕密体制論・身分制論など多岐にわたる。私自身の能力の範囲で一つ指摘するならば、権門体制論における国家論の不在で…
ここまで3回にわたって黒田俊雄の権門体制論と顕密体制論と荘園制論の説明を検討してきた。その過程で権門体制論に対する批判を精力的に展開している本郷和人氏の議論に関してささやかな疑問を二点ほど提出させて頂いた。私がここまで論じてきたのは黒田俊…
黒田俊雄の学問的体系がマルクス主義に立脚しているという、自明の前提を再確認してきた。弁証法的唯物論に即して黒田の論を整理すると、下部構造としての荘園制論、上部構造としての権門体制論、そして社会的意識諸形態としての顕密体制論がある。 マルクス…
日本中世における「社会的意識諸形態」を理解するための概念が顕密体制論である。「社会的意識諸形態」とは、イデオロギーと記せば分かりやすいだろう。イデオロギーとは階級的な利害に基づいて支配階級を正当化するためのものである。 そのことを頭において…
杉内俊哉投手とジェイソン・スタンリッジ投手。スタンリッジ投手には悪いが観戦前から諦めていた。阪神打線が杉内投手を打てるようには思わなかった。 浅井良中堅手がよく打ったと思う。スタンリッジ投手は非常によく投げたと思う。 8回の藤川球児投手の起…