対訳『椿葉記』6

さて内裏は伏見殿と御中よく申通られ侍る。その比、将軍は幼少にて、執事細川武蔵守頼之朝臣天下の事は執沙汰申程に、内裏には近臣ども内談ありて、御譲国のさたやう/\風聞せしかば、伏見殿より栄仁親王践祚の事、後深草院以来正嫡にまします御理運の次第…

対訳『椿葉記』5

さて延文二年二月十八日上皇は伏見の離宮に還幸なる。閑素にてまします。両法皇、先坊もみな還御なる。抑長講堂領・法金剛院領・熱田社領・同別納・播磨国衙・同別納等は、後深草院以来正統につたはる。然は法皇の御譲を受て上皇御管領あり。御堂御領知行す…

対訳『椿葉記』4

さて春宮は廃せられて、光厳院第二宮、同八月十七日践祚あり。父の御譲にもあらず、武将のはからひとして申をこなふ。此宮は、妙法院の門跡へ入室あるへきにさため申さる〃ところに、不慮の聖運をひらかせ給て、御子孫まで継体四代に及へり。 春宮-直仁親王 …

対訳『椿葉記』3

同三年閏二月廿日南朝の天気によりて両上皇・新院・儲君直仁親王、八幡の軍陣に幸しまします。南方の官軍利なくして八幡より没落、河内国東条の城に遷幸あり。同五月に又大和国加名生の離宮に渡御なる。同八月に光厳院御落餝あり。其後河州の行宮にて禅衣を…

対訳『椿葉記』2

崇光院は光厳院第一の皇子にて、後嵯峨院以来皇統にてまします。御在位わづかに三年、天下乱て観応二年十一月七日南朝より取奉て御位を廃す。同十二月廿八日太上天皇の尊号を奉らる。此日、光明院にはかに御出家あり。御発心ときこゆ。其後伏見の法安寺にて…

「悪口事」

御成敗式目12条には「悪口咎事」という条文がある。 一 悪口咎事 右闘殺之基、起自悪口。其重者被処流罪、其軽者可被召籠也。問註之時吐悪口則可被付論所於敵人也。又論所事、無其理者可被没収他所領。若無所帯者、被処流罪也。 その判例。 正安二年七月二日…

対訳『椿葉記』

恒例の尻切れトンボシリーズw 伏見宮貞成親王が実子の後花園天皇に奉った著書。崇光院流に生まれ、後光厳院流の後小松上皇の猶子として即位した我が子後花園天皇に崇光院流の歴史と、自分に太上天皇号を欲しいという希望と、天皇としての君徳の涵養の必要性…

ガラナ5死去

コリドラスガラナ5が死去。ガラナに凝ってた時期があって、ガラナ1、2、4、5を飼育していた。他にガラナバナナールも。現在は4だけになった。

御前落居記録

1 北野宮祠官権律師明兼申す、伊勢国長太・石津・加納・堀江等領家職の事、「去る永和・嘉慶年中、不知行の地を以て御寄附の間、粉骨を致し、安堵せしめ、門跡〈聖護院〉の素意を得、当宮領目録に入れおわんぬ。仍て知行の処、永琳院を語らい、門跡御師と号…

工藤家年々秘録

1年前にストップしたきり(苦笑)。で、調べてみた。 北大の附属図書館に高倉新一郎所蔵の写本があるらしい。 https://www.lib.hokudai.ac.jp/uploads/2013/03/a63694a7e4c642d089e18dd7c6b59f4f1.xlsx ということは*1私の持っているコピーは高倉新一郎の筆跡…

近況

メダカすくいの関係でメダカが増殖。さらにメダカの稚魚が増殖中。 プラントグラスと侘び草で、ちいさな水辺セットの小型版を作成。余った石と砂でもう一つ小型水槽を立ち上げた。

永享三年六月六日条続き 一、越後守護幸龍丸(上杉房朝)、在京のあり方が不可思議である。雑掌が一人祗候しているのはよろしくない、ということを、畠山(満家)より仰せ付けるようにということを畠山に申せ、ということであった。 一、上杉兵部大輔(上杉…

永享三年五月 廿四日、晴。早朝に京都に出た。少し雨が降ってすぐに晴れた。巳の初め(午前九時)室町殿参る。随心院壇所において待って申し入れた。幾ばくもなく御対面となった。九州のこと、仰せ出されおることがある。大内(盛見)より大友(持直)討伐の御教書…

満済准后日記口語訳

この子細について話し合うか、上聞していただきたい。御作善のためにお寺に入っていらっしゃる身にはこのような言い分は狼藉の至り、いうべき言葉もないでしょうが、天下の重大事で見過ごすことはできないので、平に京都においでくださいますようお願いいた…

満斉准后日記口語訳

永享三年四月十一日条続き この(管領の)言い分を(義教に)申し入れたところ、以前仰せ出された那須(氏資)、佐竹(山入佑義)、白川(白河結城氏朝)、宇都宮藤鶴(等綱)などの事、一人でも罰状に漏れていることがあるならば、使節との対面はかなわない…

満斉准后日記永享三年四月十日条口語訳

十日 晴。早朝に京都に出る。今日は室町殿月例の連歌である。頭役発句は聖護院准后(満意)。 管領(斯波義淳)より使者飯尾美作が来た。「仰せ出された旨については関東の使者に仰せつけましょう。但し畠山(満家)、山名(時煕)らはご対面のことについて…

足利義量の評定始(?)

『後鑑』足利義量将軍記をみていると、「花営三代記」を引いて「御評定始」と綱文が立ててある。「有御評定始。管領出仕。頭人三人出仕。摂津左馬助満親。波多野因幡入道元昌。問注所刑部少輔康雄。」ということで、これはさすがに「義量を消せ」と思ってい…

足利義量発給文書の復元

『後鑑』所収の足利義量発給御内書(?)には手が加えられている蓋然性が高い。 立像堂百座祈祷之巻数到来。目出度候。彌可被致武運長久精誠之状如件 応永卅年十二月廿八日 義量御判 本国寺院主上人御房 前回書いたことだが、このような巻数お礼のような時限的…

足利義量発給文書

『後鑑』を見ていると一つだけ足利義量が発給したことが明らかな文書がある。 立像堂百座祈祷之巻数到来。目出度候。彌可被致武運長久精誠之状如件 応永卅年十二月廿八日 義量御判 本国寺院主上人御房 引っかかる点が二つ。まず「義量御判」とあるが、実際に…

応永三十年五月七日付将軍家御教書

本文 東大寺八幡宮領摂津国兵庫関努代官所料事。先度被免除之処、自地頭領家、重覃其責云々。所詮向後於寺家直務之時者、停止彼所料、全領知、御願以下同島修固等之由、所被仰下也。仍執達如件。 応永三十年五月七日 沙弥判 当寺衆徒中 これはしばしば「室町…

網走の応永板碑に関係するかもしれないこと5

網走の板碑だが、それを立てた人物、勢力の姿はなかなか見えてこない。 それを考えるために館主の中で渡道の経緯が明確な人物を挙げると、足利持氏関係の人間が目に付く。結城氏の乱に関与したとしか考えられない村上政儀や相原政胤、享徳の乱との関わりがあ…

網走の応永板碑に関係するかもしれないこと4

題名を「応永板碑に関係しないだろうこと」にした方がいいのではないか、と思うが、引き続き北海道に渡った武士団について見ていく。今回は武田信広。信広と言えば松前藩のクロニクルである『新羅之記録』によれば若狭武田氏なのだが、それを信じない人は江…

網走の応永板碑に関係するかもしれないこと3

網走の応永板碑との関係がどんどんなくなっているような気がするが、次は村上雅則、もとい村上政儀。「ネットde真実」ばりにネット上の情報を拾うと、政儀は信濃源氏の村上氏で、1440年3月の戦乱で信濃を追い出され、秋田に向かったが、暴風によって厚沢部ま…

網走の応永板碑に関係するかもしれないこと2

禅秀の乱に関わったであろう南武蔵の武士団だが、どういう経緯で北海道も網走に向かったのだろうか。ラッコの皮や鷲の羽を求めた野心的な集団なのか、本領を追われて失意の没落と流浪の果てなのか。それを考える一つの材料を提示しておきたい。 以前にも取り…

網走市出土の板碑に関連するかもしれないこと

網走市で出土した「応永の板碑」について。 渡辺美彦氏「網走の『応永』板碑のルーツを追う」(『生産の考古学?』同成社、2008)によれば、「応永廿四」の年記があり、多摩川下流域に分布するタイプであるとのことだ。詳しくは「http://d.hatena.ne.jp/arch74…

反日的な自虐史観w

産経新聞の記事。 突然の“南蛮船”の漂着を受けて、土佐の大名・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は乗組員を土佐・浦戸に収容すると、事の一切を秀吉に報告。秀吉が派遣した奉行の増田長盛(ましたながもり)は乗組員の全員処刑の可能性と積み荷の没収を…

ネットの怖さ

ネット上での喧嘩の腹いせに無関係の中世史研究者の実名をあげながら、それが間違っているとツイッターから削除するだけで終わらせるって、無責任だと思う。と言うか、怖い。ツイートから削除してもネットでは残るからね。どう責任を取るつもりだろう。

近況

メダカの内一番大きいのが死んだのは四月上旬。 娘が階段から転落して開放骨折の重傷を負ったのが十日ほど前。 娘の怪我は何とか落ち着いた。 昨日大崎氏と金沢氏関係の史料が届いた。 今日からは娘が保育園に行ける。 書評の校正を提出。六月に出る予定。書…

開部但馬孫二郎=海部但馬守?

さんにゃんさんの言いたいこと(http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20140318/1395107502#c1395911338)がわかった。 またまたヰ函40号文書。 http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=8698&p=2 ここの開部但馬孫二郎、私は『大日本史料』と上島有氏の…

名前の順番

せいすいえいこ氏は名前の順番について次のように主張する。 私の経験では、名前の順序など、大したことではない、 というのが、専門家筋の意見である。 しかし、式典などでは、席次は常に、政治的配慮が含まれていて、 その認識は、おろそかにできない、は…