太田光

科研プロジェクトの代表からコシャマイン戦争についての問い合わせが来て、答えたら「それオモロイから次の研究会で発表してくれや(意訳)」と言われて必死で大崎教兼挙状を検討中。そこで太田光の検討が。といっても爆笑問題のボケとは同姓同名の違う人(当た…

『満済准后日記』に見る禅秀の乱

今調べている網走の応永板碑関係、応永二十四年の年紀がある。ちょうど禅秀の乱の後である。 応永二十四年五月九日条 宇都宮へ(続群書類従本では「人」となっているが、どうみても「へ」である)御書。今日被□ー□(鎧カ)一両〈白糸〉御太刀一腰彼(続群書…

足利義嗣と北海道史

北海道中世史以外では顧みられることもない足利義嗣。その問題を三月に報告するので忙しいので放置。 でもIXAはするw

著作権法32条

公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない どこにも無断引用はいけない、とない。そ…

対訳『椿葉記』25

其四月に仙洞には宸筆の御八講をこなはる。これは後円融院卅三廻の御仏事にて執行はる。紺紙金泥の法華経、竹園門跡助筆申さる。貞成にも両巻〈第五巻、阿弥陀経〉かゝせらる。後記のためも無官にてはいかゞにて、親王宣下の事を望申。仙洞勅許子細なくて四…

対訳『椿葉記』24

さて同卅年二月院の第二宮、これも俄に御隠あり。此宮は勧修寺中納言養育申て、かの家にわたらせ給。今度の儲君ときこえさせ給つるにいとあさまし。おなじ月に又将軍宰相中将義量〈勝定院息、号長徳院〉逝去せらる。うちつゞき公武の御歎もさこそとおしはか…

対訳『椿葉記』23

襁褓の時より今出川入道左府に養育せられて、多年菊亭に侍き。幼稚のそのかみ、聖護院覚増法親王の弟子に契約して、すでに入室の日次まで定らるゝ処に、不思議の障碍さへ出来してとまりぬ。倩思ふにも、こなたさまの身は、門跡をさへきらはるゝ程の員外の身…

対訳『椿葉記』22

かくて同廿三年十一月廿日親王つゐに薨給ふ。兼より遺書をあそばしをかれて、大光明寺に料所を寄られて、御塔頭をたてゝ大通院と御称号を申べき由申定をかる。さる程に一の宮〈治仁〉、御相続ありしに、いく程もなく次の年二月十二日俄に御隠ありしに、いと…

対訳『椿葉記』21

さて内裏は、御治天卅年政務おぼしめすまゝにておりさせ給ふ。同十九年八月廿九日一の宮〈称光院〉に御位ゆづり申さる。御治世はもとのごとくにて、よろづ目出度わたらせ給。伏見殿には御老病なへなへとまします程に、始終御安堵の事を仙洞へ申さるゝとて、…

対訳『椿葉記』20

いまはもとの御所もなし。御座あるべき所なくて故三位局〈杉殿と申〉里にて宝厳院と申比丘尼所になされたる所を、まづ御所になさる。狭少不思議なる草庵の、かりそめながらいまに御所にてあるなり。萩原殿をば前坊の御子に周高西堂と申人、公方へ所望申され…

対訳『椿葉記』19

さて准后御かくれの年、管領申沙汰して伏見御領を返申さる。此御領は長講堂領なれども、惣御領に混ぜずして伏見殿の御子孫管領あるべきよしを、光厳院殿御置文あり。御名字の地なるうへ、別したる御譲の子細も申披かるゝに付て、御安堵あればめでたくて、次…

対訳『椿葉記』18

世中は火を消たるやうにて、御跡つぎも申をかるゝ旨もなし。此若公にてやとさたありし程に、管領勘解由小路左衛門督入道おしはからひ申て、嫡子大樹相続せらる。其後内大臣までなられて出家せられき。此若公は昇進大納言までなられしに、野心の企やありけん…

対訳『椿葉記』17

准后の若公、梶井門跡へ入室ありしを取返し申され、愛子にて、いとはなやかにもてなされしほどに、此行幸にも舞御覧色々の御あそびどもにさふらはれて、色花にてぞありし。其四月に内裏にて元服して義嗣と名のらる。親王御元服の準拠なるよしきこえし。御兄…

対訳『椿葉記』16

さても准后は北山に山荘を立らる。此所は西園寺の居所にてあるを申受られて、昔常磐井の相国の造営せられしにも猶たちこえて、玉をみがき金をちりばめてつくり立られて、応永十五年三月行幸を申さる。十日ばかり御逗留のあひだ、舞童御覧・三船・和歌・蹴鞠…

対訳『椿葉記』15

かくて二三年は伏見に御座ある程に、同八年七月四日の夜回録しぬ。累代の御記・文書・楽器ども、大略中半過は焼ぬ。あさましとも申計なし。過つる二月には内裏炎上しぬ。ふるき皇居どもうちつゝき焼ぬればいとあさまし。さて此よし准后へ申さるゝほどに、萩…

対訳『椿葉記』14

さて御所をさへあけられて、萩原殿へ移申さる。伏見殿をは准后の山荘になさるべしとて、人もなく、いたづらにをかる。さる程に同六年十一月大内左京大夫入道謀反おこして天下乱たる折ふし、伏見の御所をば返し申されて、其十二月に還御なりぬ。 大内左京大夫…

対訳『椿葉記』13

又播州国衙は長講堂領の外にて、代々の御譲状各別なれば、国衙もおなじく返し申さる。〈国衙の奉行職は、光厳院の御時、勧修寺、朝恩に拝領して、御年貢を執沙汰申なり。〉同別納十个所もまいらせらる。おほよそ国衙の別納は数十个所あり。故院御管領にまか…

昔御内書符案

太刀一腰・馬二疋〈河原毛、鹿毛駮〉給了、悦入候、仍太刀一腰・鎧一領〈浅黄糸〉・扇五十本進候状如件 永享元 十二月二日御名乗 左兵衛佐殿 太刀一腰・馬一疋〈河原毛〉到来了、神妙、仍太刀一腰・鎧一領〈白糸〉・扇三十本遣之候也。 永享元 十二月二日 白…

昔御内書符案

大刀一腰・栢樹一本到来了、神妙候也。 永享三 四月四日 高山駿河守殿 宇多庄弓矢事、先度仰下候処、依籌策属無為候、神妙候也。 永享元 九月十一日 伊達兵部少輔殿 伊達兵部少輔-伊達持宗 宇多庄弓矢事-篠川公方及びその後見の白河結城氏と足利持氏派の石川…

対訳『椿葉記』12

かくて同年五月に萩原殿の前坊崩御成ぬ。かの御領どもは室町女院〈後堀河院御女〉御遺領なり。前坊御一期の後には宗領に返付せらるべき由、光厳院殿御置文あり。始終は伏見殿御管領あるべしよし、前坊御在世の時法皇へ申をかる。此子細准后きき披かれて、室…

昔御内書符案

筑前国事、為料国、仰付大内さ京大夫入道之処、対狼藉之輩致忠節云々。尤神妙、弥可抽戦功也。 同日 原田刑部少輔殿 筑前の原田氏に大内と合力するように命じた御内書。原田氏はこれを契機に大内氏の傘下に入り、大内氏滅亡後も大友氏に抵抗を続ける。 大友…

昔御内書符案

太刀一腰馬一疋栗毛・轡十口・染革十枚・鳥目万疋到来了。神妙候。太刀一腰・香合・盆遣之候也。 永享三年二月廿三日 小笠原治部大輔殿 小笠原政康宛。永享の乱と結城合戦で義教方として活躍。村上政儀の渡道にも関係があると私は睨んでいる。 筑前国事、為…

対訳『椿葉記』11

いつしか御領の事どもさたありて、御百个日すぐれば、やがて長講堂領・法金剛院領・熱田社領播磨国衙以下、ことごとく禁裏へめされぬ。あまりになさけなき次第、申せばさらなり。しかれば忽に御牢篭のあひだ、親王やがて御出家あり。おほよそ長講堂・法金剛…

昔御内書符案

太刀一腰・鎧一領・島目万疋到来了、神妙候、太刀一腰、鎧一領〈浅黄糸〉・馬一疋〈鹿毛〉遣之候也 永享三 二月七日 渋川中務大輔殿 渋川満直充の御内書。少弐氏との戦いに大内盛見と連携して当たるが、この御内書発給の半年後に盛見が戦死、満直も永享六年…

対訳『椿葉記』10

其後准后も出家し給。その比、又伏見殿へ御参ありて、いと快然なりしほどに、進物十万疋まいらせられて、その御礼に御庭の田植興行せられて入申さる。田楽などいとおもしろき御遊ども侍りき。かくて応永四年の冬より御悩にて同五年正月十三日崩御なりぬ。遺…

対訳『椿葉記』9

其後准后はやがて太政大臣に成給て、威勢いよいよさかへましまして、吹風の草木をなびかすがごとくに、四夷帰伏して万国静謐せり。城南の離宮には閑素として歳月を送まします程に、明徳三年十一月卅日上皇は法皇にならせ給。御戒師は常光国師なり。法親王に…

対訳『椿葉記』8

さて禁裏は御在位十二年ましまして、永徳二年四月御譲位ありしかども、今度は伏見殿より御微望を出さる〃に及ばねば、あらそふ方なく一の御子御位につきぬ。新院は御治世なれども、天下の事は大樹執行はせ給。その比ふしみ殿へ准后常に御参ありていと時めき…

対訳『椿葉記』7

承久以来は、武家よりはからひ申す世に成ぬれば、いかにも申沙汰せらるべきよしを再三仰らる。御理運勿論とは存知申ながら、内裏より別して頼之朝臣をたのみ仰らるゝによりて、所詮いづかたの御事をもいろゐ申ましき由を申て、つゐに一の御子御譲位ありぬ。…

河野加賀入道続

何があったのかのまとめ。 其子細ハ祇園神主代僧去々月比歟、被殺害了。仍彼僧若党召捕究問処、河野加賀入道妻〈神主僧猶子松寿丸母也〉作語間殺害由白状了。仍此白状旨ニ任テ河野入道妻ヲ可有御罪科歟処、夫入道罷成代官種々陳望申了。其上妻カ罪可懸夫段又…

河野加賀入道

帆船ハッカ(@kotosakikotoko)/2013年12月17日 - Twilogで河野加賀入道が『満済准后日記』にあることを知り、そこで『満済准后日記人名索引』で調べた。その結果、永享五年八月一日、六日、九日、九月十八日条に出ていることがわかった。 永享五年八月一日条 …