史料

「関東新制条々」15−追加法351

裁判制度に関わる条文。 本文。 一 問注書下事 問状清書之仁、就訴陳状到来、不申入子細、無是非書上之条、沙汰依違之基也。自今以後、問状本奉行人請取訴陳等、申沙汰之。可書下之。 読み下し。 一 問注書下の事 問状を清書の仁、訴陳状到来に就き、子細を…

「関東新制条々」14−追加法350

引き続き公務員に定められた義務。 本文。 一 可定置評定衆并引付衆及奉行人起請事 政道之源、以無私為先。誰背此理。然而且為避上之疑、且為顕下之忠、任故武蔵前司入道之時例、可被召起請文也。但雖加署判於先年之起請文、於今度者、評定衆以下一同、可令…

「関東新制条々」13−追加法349

ここから御家人関係の条文群。 本文 一 可専守式目事 被定置之後、有違犯事者、随聞食及、可有誡沙汰也。自今以後、固可守此法也。 読み下し。 一 専ら式目を守るべき事 定め置かるるの後、違犯の事あらば、聞こしめし及ぶに随いては、誡の沙汰あるべきなり…

「関東新制条々」12−追加法348

鷹狩りについての規定。一応「神領」なので、これも神仏関係のところに入れるべきか、という気もする。御家人の守るべき条項であることは論をまたないが。 本文。 一 鷹狩事 神領供祭之外、可停止之由、御下知先畢。固守此制禁、不可違犯矣。 読み下し。 一 …

「関東新制条々」11−追加法347

昨日、この「関東新制条々」について論じた佐々木文昭氏の『中世公武新制の研究』(吉川弘文館、2008年)を読んだ。その中で氏はこの「関東新制条々」の条文の分類をしておられる。神仏関係の条文の構成は、前半に寺社が行うべきこと、後半に御家人への…

『吾妻鏡』寛喜三年三月十九日条所収の北条泰時奉書−追加法20

藤木久志氏の著作『飢餓と戦争の戦国を行く』に言及したついでに同書「飢饉出挙の習俗」で論及されていた追加法20条をみておこう。 寛喜三年、西暦では1231年、執権は北条泰時、この年は大飢饉で、前年夏に寒冷な異常気象と大風によって大凶作になり、…

「関東新制条々」9・10−追加法345・346

前回に引き続き仏事に関する条文。『御成敗式目』でも神仏関係の条文は最初に記載されていたが、合計2条に纏められているのに対し、こちらでは神仏関係だけで10条。辛酉革命を回避するための「徳政」だったのだが、もう一つ見逃せない事情がある。藤木久…

「関東新制条々」8−追加法344

ここからは仏事に関する法令。神仏に関する規定を最初に置くのは、『御成敗式目』を踏襲している。 本文。 一 可令如法勤行諸堂年中仏事等事 諸堂之勤、恒例有限。而供僧等、纔雖有勤修之名、更無抽誠信之志。被補其職之始、雖有法器之清撰、被補其職之後、…

「関東新制条々」4〜7条、追加法340〜343(1月25日修正)

神事関係の御家人への禁止規定。八幡宮関係の神事と二所参詣、つまり箱根神社と伊豆山神社参詣への隨兵の規定。鎌倉幕府の行事として鶴岡八幡宮と二所参詣が将軍の年中行事としてあった。 一 放生会的立役事 一 同居隨兵役事 一 若宮流鏑馬役事 一 二所御参…

「関東新制条々」4・5・6−「追加法」340〜342

これは題目だけしかない。残っていないのか、そもそもなかったのか、私は知らない。これは今(1月25日)読み直して気付いたが、これは次の条文と一括して扱われるべき問題である。したがって次の日のところに一括して載せ直す。 一 放生会的立役事 一 同…

「関東新制条々」3 追加法339

神仏関係の史料。 本文 一 可令停止神人加増濫行 神人者常陪社頭、可従神役。而散在国々以好梟悪、充満所々以致狼藉。自由之企、甚背物宜。早於新加神人者、削其名以隨停止。至本補神人者、忌事以可勤職掌。 読み下し 一 神人の加増濫行を停止せしむべし A …

弘長二年「関東新制条々」2 追加法338

しばらくこれにかかりっきりになる。現政権が奇跡の浮揚を遂げようが、はたまた政権交替に至ろうが、このブログでは今後一ヶ月以上は「関東新制条々」61条の検討にブログでは専念したい。 第二条も神事の問題。『御成敗式目』では一条が神事、第二条が仏事…

「関東新制条々」1 追加法337

弘長二年に出された「関東新制条々」全61条を読むシリーズ。 本文。 一 可如法勤行諸社神事等事 祭、豊年不奢、凶年不倹。是礼典之所定也。而近年神事等、或陵夷背古儀、或過差忘世費。神慮難測、人何有益。自今以後、恒例祭祀不致陵夷、臨時礼奠勿令過差…

弘長二年二月二十日「関東新制条々」

弘長元(1261)年二月に全61条に及ぶ「関東新制条々」という法令が出された。追加法で言えば337から397にあたる。実はこの二月二十日という日は改元初日であり、前日までは文応二年であった。この年は辛酉であり、辛酉の年には革命が起こると言…

鎌倉幕府「人身売買禁止法」追加法304

人身売買で不当に得た利益の処分について。 一 人身売買銭事、被寄進大仏畢。而自国々運上之事、有其煩之由、小聖申之。然者為地頭之沙汰、可送進之由、可令下知給之旨候也。仍執達如件。 読み下し。 一 人身売買の銭の事、大仏に寄進せられおわんぬ。しかる…

鎌倉幕府「人身売買禁止法」追加法299

久しぶりに鎌倉幕府「人身売買禁止法」について。寛喜の大飢饉の時に鎌倉幕府は朝廷の方針とは異なり、人身売買禁止を緩和した。それを延徳元年に再び禁止した。その後も混乱は続き、幕府は人身売買の禁止を徹底せざるを得ないことになった。 本文 一 人質事…

『看聞日記』永享3年7月10日条

飢饉関係の史料で目についたものを。 『看聞日記』は後花園天皇の父の伏見宮貞成親王の日記。『看聞御記』とも。 まずは本文。 十日。朝雨下。(中略)抑去月以来洛中辺土飢饉及餓死。是米商人所行之由露顕之間、去五日米商人張本六人侍所召捕糺明。被書湯起…

『碧山日録』寛正二年二月三十日条

住居を失うことは、基本的な生存条件を奪われることである。寛正の大飢饉の原因の一つは河内から大量の流民が京都に流れ込んできたことにある。京都は「有徳」の者の集まるところであり、そこにいけば何らかの「徳」が期待できるからである。実際最大の「有…

『碧山日録』寛正二年二月六日条

引き続き『碧山日録』。寛正の大飢饉に際しての室町幕府の対応をみてみる。 本文 六日、丁丑、流民之茇舎成矣、願阿命其徒、病民之不能起、俾竹輿乗之、其群聚、不可勝紀也、先烹粟粥食之、蓋飢者喫飯則倒死、故勧粥也、此賑済、以是月為限云。 読み下し 六…

『碧山日録』寛正2(1461)年2月2日条

少し気分転換に『碧山日録』を読んでみたい。まあ人身売買問題が「質権」と「抵当権」の違い、というよくわからん話に入ってしまって、困っている、というのがある。 『碧山日録』は東福寺霊隠軒主太極(諱不詳)の日記。太極は別名を雲泉ともいうので、一般…

鎌倉幕府「人身売買禁止法」追加法242

鎌倉幕府「人身売買禁止法」。追加法242から244までは寛元三(1245)年二月十六日に出された一連の法令。執権は北条経時。連署は空席なので、年若き執権を補佐するのは評定衆のトップに名前を連ねる北条政村を筆頭に外戚の安達義景、経時の父時氏…

鎌倉幕府「人身売買禁止法」追加法244

これもやっつけ仕事でとりあえず片づける。 本文 一 人倫売買直物事 於御制以前事者、本主可被糺返。至御制以後沽却者、不可糺返直物。本主分直物者、可被付祇園清水寺橋用途。又於其身者、不可返給本主。可被放免也。 読み下し 一 人倫売買直物の事 A 御制…

鎌倉幕府「人身売買禁止法」追加法243

明日からしばらくネットにアクセスできなくなるので(毎週のことだが)、今のうちにやっつけ仕事でやってしまえ、という発想。幸いにしてこの法令は岩波思想体系の『中世政治社会思想』に載っているので、読み下しの作成には手間がかからない。難しい言葉も…

鎌倉幕府法としての大友氏の法

前回と前々回取り上げた「幕府法」の主体が大友氏であり、それゆえ前回と前々回のエントリにおいて「無意味になった記述」はどこかを示しておこう。大友氏の法令だとは言っても大友氏の家法ではない。豊後の守護であったが、この時の当主大友頼泰が豊後に下…

鎌倉幕府「撫民法」を読む−追加法217

鎌倉幕府の「撫民法」と呼ばれる一群の法令を読んでいる一連のエントリ。この一連のエントリにおける「撫民法」とは百姓が原告となって地頭を訴えることができるように訴訟手続きを整えることを指す。 これは「追加」と題され、「寛元二年十月九日記之。同四…

鎌倉幕府「人身売買禁止法」−追加法178

鎌倉幕府の人身売買禁止法を読むシリーズ。もともと朝廷でも幕府でも人身売買は禁止されていたが、寛喜三年の大飢饉で幕府は人身売買を黙認した。世の中が飢饉の打撃から立ち直り始めた時に幕府は再び禁止に踏み切るのだが、一度始まった人身売買のビジネス…

鎌倉幕府「人身売買禁止法」−追加法156−

延応二年は七月十六日に仁治と改元される。従って年は同じ1240年だが、七月十六日以降は仁治元年となる。前回検討した追加法142は延応二年五月十二日、今回みる追加法156は仁治元年十二月十六日となるが、いずれも1240年の発布。 追加法156…

鎌倉幕府「人身売買禁止法」を読んでみる−追加法142−

寛喜三年に飢饉を契機として緩和された人身売買禁止だが、飢饉が収束して8年後の延応元年に人身売買の禁止が徹底されることとなった。一年後の延応二年の五月十二日和泉国守護に宛てられた関東御教書。当時の和泉国守護は逸見氏。『日本史総覧』では「逸見…

鎌倉幕府「人身売買禁止法」を読んでみる−追加法115−

ナンバリングは面倒なので講読する追加法の条文を記すことにした。 鎌倉幕府の「人身売買禁止法」。もともと人身売買は禁止されていたが、寛喜三(1231)年の大飢饉で鎌倉幕府は人身売買禁止の規定を緩め、人身売買を黙認した。それから8年が経過した延…

鎌倉幕府「撫民法」との関連で「北条泰時消息」を読んでみる

今のところは『吾妻鏡』延応元(1239)年五月一日条にみられた「撫民」という言葉に関連して、寛喜三年に緩和され、延応元年に再び禁止された人身売買について史料をみているところであるが、撫民法の基本的な柱となる「雑人訴訟法」に関して思いついた…